■昨日の雪で車が半分埋まっていた。1月中旬は天気が荒れる。もう10年くらい前になるか、あまりの吹雪に帰宅をあきらめ、知人の家に泊めてもらったことがあった。4年前は街なかで遭難しそうなくらい吹雪いた。シンポジウム当日で難儀した。むしろ、これくらいで済んでよかった。
■はじめて鴻上尚史の文章を読んだのは高校生だったか。すでに深夜ラジオで存在は知っていた。大学の途中で『鴻上夕日堂の逆上』の連載が終わり、『ドン・キホーテのピアス』が始まって、なんとまだ続いている。『発声と身体のレッスン 魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために』と『孤独と不安のレッスン よりよい人生を送るために』はこの仕事をするのにずいぶん参考にした。
■いまは「AERA」で人生相談の連載を持っている。今週の相談は、俳優になりたいと言い出した大学生の息子に困惑する父親からだった。反対したが息子の決意は固いので期限つきで許してやろうかと思っている。だが、できれば息子には失敗してほしくない。はたして22歳から俳優を目指して大丈夫なものだろかと。
■これにどう答えたかはリンク先を読んでもらいたいのだけど、なかに気に入った文があった。
過剰に反対するわけでも過剰に応援するわけでもなく、ただ、少し離れて、見ないふりして見ているのがいいと思います。過剰に反対していると、「親とどう戦おう」ということしか子供は考えられません。過剰に期待していると「親の期待に応えられるだろうか」しか考えられなくなります。
見ないふりして見ていたら、息子さんは自分の頭で「就職をしないで俳優の道に進むことはどういうことか」をじっくりと考えられるようになるでしょう。どんな結果になろうと、自分で考えた結果なら、受け入れられるはずです。
反対しても期待しても、子供は自分の将来ではなく親と対峙してしまう。親にできることは「見ないふりをして見ている」こと。親の会でよく出る、「子供が自分で決めるまで待つ」という話を思い出す。漂流教室のかかわり方にも通じる部分があるように思う。
■「見ないふり」ではない。「見ないふりをして見ている」という書き方が鴻上尚史らしい。「見ないふり」って、実際は見てるってことだけど、あえて重ねて書くことで「見ている」ことの大事さを強調する。目に入っているってだけじゃない、「見て」なきゃダメなんだよと。でも、それを気取られちゃいけない。難しい。