漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

北星余市を知る

■この企画のために北星余市に関する出版物や投稿をたくさん読んだ。生徒の声に共通しているのが「北星余市にはいろいろな人がいる」「ここに来て自分は変わった」「先生が真剣に向き合ってくれる」の三点。誰の話でも必ずこの言葉が出てくる。

■教育学者の大田尭氏は「生きることは学ぶこと」として、人間の生涯すべてが学びであり、学びは命と強く結びついていると説く。では命の本質とはなにか。「ちがうこと/かわること/かかわること」である。北星余市の生徒と大田氏の言葉はピタリと重なる。

■そもそも人はそれぞれ違うものであり、また変化、成長するものである。北星余市に来て変わったのではなく、本来の姿を実感できるようになったのだろう。裏を返せば、それまでの生活では違わないよう、変わらないよう生きてきた。または、差異や変化を感じることができなかったということだ。

■「真剣に向き合う」とはどういうことか、安河内校長に訊いてみた。自分たちはいつも目の前のできごとに汲々と対応しているだけだ。それを生徒たちが好意的に捉えてくれているのだろう、と言う。しかし、無視だけは絶対にしない、と。生徒とかかわる時間は長い。教室で、職員室で、下宿で、たまにドライブに連れ出すこともあるらしい。そんなに仕事して大変じゃないのかという問いには、生徒とのかかわりのなかで自分もリラックスできる瞬間がある、と答えていた。漂流教室のボランティアスタッフが、利用者と会うことで自分も楽になるのに似ている。

■印象に残ったのはある生徒の「百転び一起き」という言葉だ。百回転んでも一回起き上がる機会があればいい。人が変わるのは一度の機会で充分なのだ、という意味に読んだ。その一回を待てるのが北星余市の教師集団なのだろう。

■最後は浦河のべてるの家を例にひいて話をした。べてるも北星余市も見学者ばかり多くて同じような施設は現れない。ハウツーがあるわけではない。地域を組み込んだ、日々の活動の積み重ねが今の形をつくっているからだろう。一朝一夕には真似できない。閉校はその膨大な積み重ねと地域に張った根を無にしてしまう。

■一方で、自らの実践をきちんと語れるようにすることも重要だ。「××でしかできない実践」は一見すばらしいように思うが、実際はガラパゴス化して孤立する。実践を理論化し、オープンソースとして社会に還元する。べてるの家の「当事者研究」はそれだったのではないか。今回の事態を乗り切ったら、北星余市の次の10年はそのための期間だと考える。(2/15朝)