■臨床教育学会に所属したのは発表を頼まれたからで、頼んでおいて申し訳ないが発表するには会員になる必要がある、なってくれないかと言われたからなった。はじめは北海道臨床教育学会で、翌年、日本臨床教育学会にも入った。もしかしたら発表で釣った会員増の作戦だったのかもしれないが、なんとなく肌が合うのでそのまま加盟している。
■例えば研究課題I「臨床教育学の方法」のレジュメを見ると、こんなことが書いてある。
- 本来「ぐちゃぐちゃ」な社会において折り合いをつけてゆく手間暇をかけることが「豊かな社会」
- 依存しケアを受けなければ生きてゆけない人間の脆弱性こそ関係を生み出し合っている
- 特定の誰かと特定の誰かが、その時その場所で、関わり合ったからこそ生まれた一回限りの出来事の固有性と、そこで新しい意味が立ち上がる瞬間を描こうとする
- その場に関与している主体として、「あるがままの事実」に基づきながら「生き生きとした現実」を、時間・空間・関係性の絡み合った出来事のなかで描く
「エピソードを語ることで弱みが強みに変わる」「子ども・若者と『ともに』『ゆらぐ』こと(非決定的空間)の意味」といった言葉もあった。自分が書いたのかと思う。肌が合うのもむべなるかな。
■俺の興味はそこから、なぜ漂流教室は勝手に臨床教育のような方向へ進んで行ったのか、へ流れていくのだけど、それはほかの人に研究してもらいたい。まあ、何も専門知識を持たずに始めれば、イヤでも自分も主体にするしかない。経験がなくて客体化もできないから、一回一回の出来事に注目せざるを得ない。それこそ、実際に「ぐちゃぐちゃ」な中で、相手とともにゆらいでここまで来たのは間違いないので、似た理由はそんなところかもしれない。
■シンポジウムのテーマは「子どもの内面の苦悩によりそうこと‐いじめ『防止』を願う私たち大人が今、できることとは」。登壇者は小学校と中学校の教師、それに実際にいじめを受け学校へ行けなくなった元当事者の三名。
■個人情報もあって詳しいことは書けないが、両教師のとった行動の根は同じだと感じた。これまでの自分の方法を捨て、一から子供を理解しようと努めた。小学校の教師はそれを「子供の生きている世界を知る」と言い、中学校の教師は「子供の物語に乗る」と表現した。いじめのように固定された関係の中で起きるものは、同じく固定された関係から働きかけても効果が薄い。そもそも、動かせない関係に生きているから、クラス内の関係も固定しようと考えるのではないか。関係を変えるには、一度自分を捨てることが必要になる。それと時間。関係が動き出すまにはいくらか猶予がいる。
■だから、元当事者の「逃げ出すことを簡単にしてほしい」という訴えは大事だ。彼らには待っている時間がない。学校から逃げろと言うが、逃げた先もつらい。家にいても責められる。家の外に出れば奇異な目で見られる。それでは学校を休んでも逃げたことにならない。
■ちなみに、学校外の場所として提示された中でその人に合わなかったのが、フリースクールとカウンセラー(何かもうひとつ挙げてたのだがメモがない)で、理由はいくつかあったが、その中に「待つ時間がほしい」というのがあった。学校に行かないならここ、そうじゃなきゃここ、と出されても急には動けない。回復する時間、自分の中で整理をつける時間が必要だ。この話は、例えば親の会に出ているととてもよく分かる。臨床教育学会には保護者の参加が少ないのだけれど、保護者も支援の実践者だと考えれば、もっと声をかけてよいのではないか。