漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

学校のものは学校へ

■大阪から戻って一週間。まだ「持続可能なフリースクール」について考えている。北海道フリースクール等ネットワークで「持続可能なフリースクール」と題してフォーラムを開催したのが2010年なので、実際は十数年考え続けている。

■非営利型の民間フリースクールの特性として武井さんは「包摂性」「民主制」「共同性」「運動性」の四つを掲げた。なるほどと納得する半面、自分の感覚とはやや異なる。

■武井さんのまとめを受け、高山さんは「包摂性」と「共同性」がフリースクール運動の原点であり、そこへ民主制と運動性が加わったのではと考察する(レジュメでは『包括性』となっていたがおなじと判断)。だが、初期フリースクールにあったのは「解放/開放性」と「楽観性」ではないだろうか。「管理教育」から放たれ、誰もが好きに過ごせる場所としての「解放/開放性」。子供の生きる力に任せていればちゃんと大人に育つとの「楽観性」。子供参加のミーティングも民主的な取り組みというより、子供に任せれば万事うまく進むと楽観的に捉えてのことではないだろうか。

■それでも関係者にはある種の実感があったのだろうが、世間の「学校信仰」はそんなことでは崩れない。そこで「明るい不登校」や「選択」といった運動理論が生まれる。自分で受ける教育を選んだ子供たちはこんなに生き生きしている、学校へは行かないがみな進学したり就職したりと立派に大人になっている。こうして不登校は「自立」の物語に乗る。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』が批判するハッピーストーリーだ。

不登校が「病気」とされていたこともあり、フリースクールには福祉や医療への根強い抵抗があった。2009年開催の第一回JDECで驚いた記憶がある。障害や貧困などの課題にフリースクールが取り組むようになったのは、それらを理由に学校教育からこぼれる子供が増えてからではないか。制度が排除した者を包摂する新たな制度。フリースクールの望んだ制度的位置づけは、フリースクールが学校教育の補完機関となることで落ち着いた。

■研究会では「フリースクール」=「自由な場」の図式が変わりつつあるのではとの指摘があった。制度に乗った(乗ろうとする)フリースクールは「不安」に立脚する。このままでは「自立」できないのではないかとの「不安」。不安に応え学習支援をし、個別のニーズを充たそうと事業を拡張するほど、「学力」「自立」は重要事になり、「自由な場」の意義は薄れる。

■『不登校の子どもとフリースクール‐持続可能な居場所づくりのために』が北海道自由が丘の事例で終わっているのが興味深かった。北海道自由が丘は一貫して学校設立を目指していた。何度かの挫折を経て、この春、小学校を開校する。

■持続可能な居場所とはなにより学校なのではないか。いや、そもそも学校こそがすべての子供を包摂し、民主的に、地域と共同で運営される「運動」なのではないか。非営利型民間フリースクールの特性は、実は学校の特性なんじゃないか。

カエサルのものはカエサルへ。学校のものは学校へ返してはどうか。あちこちで新しい学校づくりが進み、本来の特性を取り戻した学校が増えるなら、フリースクール運動には意味があったと言えるかもしれない。

■残念ながらいまは逆を向いている。学校教育は振り落とす子供を増やし、フリースクールはそれらを「包摂」してまた社会へ戻す役割を担おうとしている。「それをするならお金をあげられるかも」とご褒美をぶら下げられて。

■どうしたらそれをひっくり返せるかはわからない。フリースクールに限らない。おなじ機関はたくさんある。「解放/開放性」と「楽観性」をもう一度手にしようとしても、時代が許さないかもしれない。うだうだ考えるうち、高山さんのレジュメにあるICTと普通教育のくだりにピンときた。

学校と時間割に縛られていた普通教育が、ICTによって時空間を超える

高山さんはここから「学校へのアンチテーゼ」としてのフリースクールではなく、「普通教育としてのフリースクール」への転換を唱えるが、俺の思考は反対を向く(つむじ曲がり)。

■普通教育が時空間を超えてくるなら、そこから切り離された時空間を目指す。世の中と一旦切り離す。漂流教室の活動はそれなんじゃないかと気づいたのがやっぱり10年ほど前だった。そこをさらに進める。山田の言う「休み」の保障にもつながる。そんなに変な話でもない。楽園が楽園たり得るのは俗世と切り離されているからでしょう。映画「ゆめパのじかん」が話題だけど、浮世離れしているから"夢"パークなんじゃないの(映画は観る気ないのでわかりませんが)。

■そんな場所をつくろうと思えば、実際はどこまでも現世と地続きに進めていかなくちゃならない。そもそも子供は夢の世界の住人じゃないし、あの世から誰かが応援してくれるわけでもない。でも、どうせ苦労するなら、NPOの透明性を保ったまま「ワケのわからん変なところ」になる方がおもしろそうな気がする。