漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ビビってるんだろう

■かつて不登校(登校拒否)はアウトサイダーだった。学校システムになじめないはぐれ者で、だからこそ「不登校の方がまとも」「なにも考えていないから学校に適応できる」といった過激な言葉も出た(要出典)。ある人たちは、はぐれ者をあつめてフリースクールを名乗った。

■ところで外国では好きに学校をつくれるらしい。それを国が認めるらしい。子供たちは自分の通いたい「学校」に通い、学びたいことを学んで生き生き過ごしている。ひるがえって日本はどうか。フリースクールでも子供たちは日々学んでいる。そもそも生きることは学ぶことだ。憲法では義務教育はこれを無償とするとある。フリースクールで学ぶ子供の権利を守るため、多様な教育を認め無償で利用できるようにせよ。

■権利擁護という視点では上のようになるが、見方を変えれば、枠から外れたはぐれ者を取りまとめ、ふたたび教育の枠に戻したとも言える。障害、貧困、ヤングケアラー。枠からこぼれた子はいくらでも見つかり、俺のような「親切」な人がせっせとそれを報告する。その結果、「誰ひとり取り残さない」と子供ひとりひとりに「最適化」した教育が提唱され、全国の子育て家庭のデータベース化が議論されるに至った。教育制度への囲い込みと個人管理を権利擁護が後押しした。

漂流教室をはじめたころ、あえて「スクール」を名乗らない団体がいくつかあった。自分たちは教育機関ではない。学校をにおわせるような名前で子供らを追い詰めたくない。北海道フリースクール等ネットワークでは議論の末、構成員の要件から「教育」の文言を消した。もちろんこれには反対意見もあって、あるフリースクールの長は「我々は社会教育団体だ」と言った。教育=学校ではない。人は生涯学ぶもので、社会にあってそれを支えるのがフリースクールだと。

■行政への公的補助について意見が異なり、ネットワークを去ったフリースクールもある。行政の下にいないから好きなことができる。そもそも個人の学びは生活のなかにある。子供らと一緒に生活をつくるのに行政の補助はいらない、などなど。せまい範囲での観測だが、フリースクールの「多様性」はいまよりこのころの方があったかもしれない。いまは顔ぶれこそ多彩だが、「多様な形で展開される学校教育」となった感がある。

■「学校に行く子がロボットに見える」と不登校がウリのYouTuberが言い、「不登校は不幸じゃない」ムーブメントの仕掛け人は「学校以外でも勉強はできる。無理に行く必要はない」と諭す。不登校だって稼いで生きていくことができる。だから大丈夫。これは「登校のみを目標にするのではなく、社会的に自立すること(=経済的自立)を目指す必要がある」という文科省の方針ときれいに一致する。はぐれ者を生み、それを教育に回収するシステムはいまも順調に回っている。

■さてとぼくはなにをしようか。とりあえず校舎の窓は割らないよ、と言いたいところだけど、最近、ギャングみたいな心持ちになっているのでどうなるやらわからない。「行政の方針には従わない。だから金を出せ」みたいな。もちろん乱暴な物言いなのはわかっているけど、そうじゃないとちっとも「多様」にならないだろ?

■いろんな学校が増えるのはいいのだ。学校以外で学べるようになるのもいいのだ。生活体験を重視する活動があっても野外体験を重視する活動があってもいい。「民主主義、なん"でも暮らしい"いがいい」。むかし、なにかで読んだ英単語ダジャレ暗記法。なんでもいいはずなのに俺が悩んでいるのは、まあビビってるんだろうな。権利を訴えて世界が狭まるのはもうゴメンなのです。「役に立たない」というのは難しい。