漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「世界一受けたい授業」で語られた不登校

■蟄居生活も終盤でございます。食事と運動に気をつけて、体重は減少傾向になっています。早起きもするようになった。これはこれで、徹夜仕事が大変になりそうだが。

■夜、「世界一受けたい授業」という番組に不登校新聞の石井志昂編集長が出るというので見ていた。教育機会確保法成立以降の、東京シューレに代表される一群のフリースクールが訴えてきたことの集大成という印象を持った。不登校は甘えでも怠けでもないこと、命を守るために不登校をするということ、不登校という生き方が認められたということ。しかし、どうもひっかかる。

■まず、不登校の全ては命に絡むのか。夏休み明けに青少年の自殺ピークが来るということが明らかになった2015年の自殺白書以来、いじめ〜自殺〜不登校の三題噺が頻繁に取り上げられる。「学校ムリでもここあるよ」キャンペーンとか「両親が不登校を認めてくれた。生きていけると思った」という小幡和輝氏のコピーに繋がる話が、今日の番組でも基調だった。フリースペースえんの西野さんのインタビューもそれだ。これについての批判は去年の相馬の日誌が詳しい。
hyouryu.hatenablog.jp

■番組の中では、無理やり登校させようとしてその後本人から「死ねなくてごめん」と言われて後悔したという母親のインタビューがあった。インタビューを受けて無理に行かせなくていいという話をスタジオで共有し、子供は行動や体調の変化でSOSを出すということを石井氏が語った。その後、「ゲームで夜ふかしして眠いから今日は休もう」という子供に母が行きなさいと言ったところ「登校圧力をかけるな」と反論するアニメが流れ、子供の行きたくなさがふざけて言っているのか本当かの見分け方として・腹痛・頭痛・ペットや兄弟をいじめる・何度も手洗いをする・お風呂が長時間になるの4つのSOSサインのうち2つがあれば危険信号という話が出た。結局、不登校を命の問題にしてしまったから、その真偽を確認しなければならなくなったのだ。それをこんなにお手軽にしていいのだろうか。相馬も上の日誌で書いたように、命が軽くなっている。

■次にひっかかったのは、番組に登場した不登校経験者たちの有り様だ。学校に行かなかったが、フリースクールやホームスクールで自分で学び、進学したり就職しているというストーリーに終始している。「多様な」教育機会を確保する法律を作った結果が、進学・就職に繋がる(社会的自立と言い換えてもいい)故に不登校は認められるという論理になっていると思うがどうか。

■そして、これらの話の裏にずっと流れているのが「いじめ」だ。どうもこの番組に限らないが、2015年以来不登校といじめの関係性が強調されているように感じる。無関係であるはずはないが、不登校が命の問題であることを強調するために恣意的に印象を操作しているのではないか。不登校児童生徒数に比べていじめの認知件数は格段に多いが、不登校の統計ではいじめを理由とした数は少ないのだ。また、自殺を考えた人の中では不登校経験者>いじめ経験者という割合があるとの日本財団の調査もあった。実際いじめによる自殺が報じられ、それはショッキングなものだから強い印象を与えるが、実はいじめ以外が理由の不登校の中に自殺に繋がるものが多数あるという仮説を立てた方が現実に合うのではないか。

■大学時代からの友人も同じ番組を見ていて、メッセージを送ってきた。曰く、「不登校でも東大に行ったと紹介する意味がわからない。学校に行っていても東大に行く人は少ないのに」「学校に行かずに家で勉強するというけど、元々勉強は一人でするものじゃないか。学校に行くことと勉強することがイコールという認識が常識なのだろうか」これも面白い視点だと思う。不登校について取り上げる番組は、今日に限らず、そもそも学校に行くとはどういうことかを自明のものとして語っていると思う。実は、それはとてもあやふやなものだ。不登校は生活全体を覆うものであるのに対して、学校は学習を主とした生活の一部しか覆わないはずなのに、不登校と学校が対等に二項対立しているように語られることが、不登校と学校を巡る様々な不均衡を生んでいるのではないか。

■などということを思ったが、なんと明日日曜日に石井編集長が番組で語れなかったことを語るライブをYou Tubeでやるという。見ようかね。

www.youtube.com

※文意が繋がらない部分があったので一部削除。(日曜日)