漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

もうやめていいんじゃない

両親が不登校を認めてくれた。
生きていけると思った。

■こんな広告が和歌山の地元紙に出たらしい。広告主はときどきこの日誌でも取り上げている「不登校は不幸じゃない」「正しい不登校のやり方」の小幡和輝氏。例の夏休み明け自殺防止キャンペーンにあわせて出された。

note.com

インパクト強い。コピーライティングのセンスがあるなと思う。9月1日不登校コピー大賞があったら優勝だろう。「学校ムリでもここあるよ」よりずっと訴えかけてくる。個人で広告を出すというやり方も意表を突く。正直、俺には思いつかない。

■この広告のもっとも優れているところは、ターゲットをしっかり把握していることだ。誰に向けて打たれた広告か。はっきりしている。親だ。なぜ親か。子供が学校を休むのも休めないのも親の考え次第なところがある。親の影響は大きい。そして、学校には行かないとして、どこか別のところを利用しようとなったとき、金を出すのも親だ。

■「学校ムリならここあるよ」は子供を対象にしている。じゃあ、ここがいいと子供が言ったとして、決定権は誰にあるか。月額3万円以上のフリースクール利用料を払うのは誰か。子供なんてすっ飛ばして、親を揺さぶるのが手っ取り早い。そして揺さぶりの本道は「不安」だ。

■そのむかし「Future Harbor」という団体があったという話は何度かした。ひきこもりの将来なんてロクなことにならないと不安をあおり、社会復帰の手伝いを買って出た。最近ではクラスジャパンプロジェクトが、不登校の子は社会難民化するおそれがあると不安をあおり、自社の学習プログラムをアピールした。要は脅しだが、この手法は本当によく使われている。件の広告もまた脅しだ。だからインパクトが強い。「両親が不登校を認めてくれたから生きていけると思った」とは、裏返せば「認めなければ死んでいたかもしれないよ」ということだ。

■もっとも、もとのキャンペーンがすでにそういう雰囲気を持っている。世論が動いたのは「自殺者数」というショックを与えたからだ。もっと言えば、不登校は常に命の問題にされてきた。「死なれるくらいなら、学校になんて行かなくていい」。それは正論だし、命というかけがえなのないものを持ち出したからこそ人の考えを変えたのだろうけど、一方で命の値段はひっそりと安くなった。代替不可能なことの比喩だった「死なれるくらいなら」が、「死なれるくらいならこっちはどう?」とモノサシの役割を果たす。いつのまにか命は比較可能なものになった。

■夏休み明けの自殺防止キャンペーンって、学校の代わりにどこかに行くことを推奨するものだったっけ。学校は行かなくてもいい、でもこういうことはしておいた方がいいよと「正しい不登校のやり方」に誘導するものだったろうか。命を材料に、学校以外の選択を迫るシステムに変わってしまっていませんか。

■命と選択肢が並んで提示されるようになっちゃったいま、もう夏休み明けの自殺防止キャンペーンは撤収した方がいい。影響は十分に与えた。「死ぬくらいなら」という言葉が、子供を別のシステムに追い込む役割を果たすなんてあんまりじゃない。