漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

決めさせろ!

■ヒマつぶしに入った古本屋でぱらぱら本をめくっていたら、「江戸幕府は開国を『選択』したが『決定』はしていない」という一文が目に飛び込んできた。

■ハッとして読み返したらそんな文章はない。単なる読み間違いだったのだけど、読んで衝撃を受けたんだから、それは確かに「あった」のだ。書いていないことを発見する。それも読書の醍醐味だ。

「選択はしたが決定はしていない」

■考えてみれば、マイノリティが要求したのは常に「自己決定」だった。自分が何者かは自分が決める。自分がどうするかは自分が決める。当事者主権とは「決めさせろ!」であって「選ばせろ!」ではなかったはずだ。

■「自分が納得して決めたことならがんばれる」というのが「よくある不登校のストーリー」で、しかし、それには時間がかかる。行きつ戻りつしながら過ごす「非決定の空間」を「居場所」といい、フリースクールもそのひとつだった。それがいつの間にか「学校以外の選択肢」と言われている。

■いや、「言われている」というのはちょっとずるい。自分でもずいぶんそう言ってきた。はたからすれば「決定」と「選択」にたいして差はない。最終的にどれかを選んだとしか見えないからだ。決められないのは選ぶ道がないからで、選ぶ道がないのは社会が不寛容だからに違いない。寛容な社会を目指す親切な第三者は、選択肢をたくさん用意しようとする。でもそれは「どれにするか決める」なんだよね。「どうするか決める」ではない。

■そのうえ「非決定の空間」まで「選択肢」になってしまったらためらう時間すらなくなって、「自己決定」は権利ではなく義務となる。こうして「自己決定」は「自己責任」にすりかわる。「職業選択の自由アハハン」なんてのんびり歌っているヒマはないのだ。

■たとえば選挙。あれだって政党や候補者を「どれにするか選ぶ」ためじゃなく、国の現在や未来に対し自分が「どうするか決める」ためのものだろう。「家庭、学校、職場、余暇活動、若者の活動で、民主主義を教えることを怠ると、若者は政治に対してひがみっぽくなり、投票率は下がり、政治家、政党、政治的な若者団体への不信感が募る」「市民教育の経験がない若者は、同調圧力により極端な思考に陥り、暴力的な政治活動をしやすくなる」と欧州会議の提言書にあるそうだが、別に若者に限った話ではないね。