漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

エスカレーターと階段

■うまく言えないが、不登校で得られる財産のひとつは、ものの見方が変わることだと思う。学校へ行けなくなるというある種の「挫折」を経て、自分や親子関係や、学校という制度や、その背後にある社会を捉えなおす。いままでなんとなく「やらねばならない」と思って、「できない」と苦悩していたのが、やるもやらないも、やるとしてどう進めるかも自分で決めることだと知る。

■ただ、おおげさに言えば人生観を変えるようなもので、一朝一夕には済まない。どうしても時間がかかるし、ひとりで考えれば煮詰まる。不登校がときに「生みの苦しみ」に喩えられるのはこのせいだろう。

■一方で、よけいな苦労はしたくないさせたくないと、はじめから「自分に合った」道へ進もう進ませようとする人たちもいる。JDECでの奥地さん曰く、小学生のフリースクール利用が増えているのはそのせいじゃないかとのこと。なるほど、そういうこともあるだろう。選択の理論。N高や「未来の教室」とも軌を一にする、ある意味、流行りの理屈だ。選べる環境にいる人限定ではあるが。

■それはそれでかまわない。よけいな苦労をすることはないと十数年前から言っている。一方で若干の不安もある。「自分に合ったものを選ぶ」のは、要はつまずかない、立ち止まらないための手立てだ。イメージはエスカレーター。一定の速度でスムーズにすーっと上っていく。だが、どんなにていねいに設計し、レールを敷いてもうまくいかないことはある。思わぬところでつまずいて、そのとき、立ち止まらないための仕組みしかなかったら、ちょっとつらくないだろうか。

■対抗するイメージは階段、それも踊り場だ。不登校を踊り場に喩える例はこれまでもあった。だがそれは一息つく、いわば「休憩場所」としての役割だった。踊り場にはもうひとつ役割がある。階段を上ってきた人は、踊り場でいったん上るのをやめ、これまで来た方向と反対に向く。進むためには逆を向かなきゃならない。冒頭でふれた「ものの見方の変化」はこれだ。

不登校界隈でときおり聞く言葉に「不登校が足りない」というのがある。小学校、中学校時代に十分学校を休んでいないと高校に進んでからも休む、というものだ。実際そういうケースはあるのだけど、それって踊り場で方向転換しなかったということなのかもしれない。休憩はしたが、以前とおなじ方向を見て、おなじ方向へ進み、おなじように行き詰まった。

■だからって進んで苦労させようというのは、違う種類のエレベーターを用意するだけで、これまたおかしな話だ。まあ、俺は人間の「挫折する力」を信頼しているので、いくら周到にエスカレーターを用意しても、どこかで立ち止まるだろうとは思っている。そんなとき漂流教室という、年齢、所属を問わず使える踊り場があることを思い出してもらえたらさいわい。