漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

コロナ流行下での合同教研

■日曜日は合同教研に参加。今回はコロナ流行下でZoomでのオンライン開催だった。合同教研はオンラインでは失われるものが貴重だったなと感じた。失われたものの一つは、近況報告や意見交換が行われていた分科会以外の余白の時間だ。年一回の開催で、初めて会う人と話してみる機会が取れないのは繋がりを広げる機会の損失だし、この時にしか会わないような人たちと終了後に立ち話のようなことができないのも残念だ。この辺りは運営の工夫でなんとかできるところもあるかもしれないが、元々オンラインで行うのに不向きなイベントであるとも思う。また、自分はiPadで参加したのだけど、資料がPC版Zoomならpdfファイルを共有できるところ、iPadでは出来なかった。各々の通信環境によって参加体験が変わってしまうのも勿体ないと思った。

■さて、今回は不登校分科会が無くなり、子ども・青年の発達と教育分科会に合流した。学校の教師から見える教科学習ではない子供若者の発達について報告をしている分科会で、数年前までは定点観測でいた分科会だった。今回発表されたレポートは、コロナ禍での子供との関りについてがメインだった。子供との関りが例年と違い一斉休校明けから始まり、クラス運営を基盤としたこれまでのノウハウが大幅に変更を余儀なくされた教師の大変さが報告されていた。一日に関わる時間が少なかったり、他学年の担任も関わることがあったり、行事など学習以外の時間が削られることで関わり方が難しくなったり。考えて見ると上に書いた合同教研で失われて残念だった余白の時間が、学校でも大幅に奪われて子供・教師双方にとって大変な年になっているのだ。成長における余白の大切さが身に染みた年なのではないか。

■参加していた時間で唯一意見を述べたのは、子供が日々の生活から進路選択という人生の岐路まで、自分の意志で選択することが難しくなっているという話が出てきた時だった。「選択」という言葉が随分ポジティブなイメージで使われていたので良く聞いていると、どうも自分の「自由に行動する」ことと重複している部分があるように思えた。しかし、選択というのは選択肢が自分以外の誰か・何かによって用意されているものだ。そして、そこから選ぶという行為はそもそも他者から迫られるものであったり、自由に振る舞えない何らかの制限があるものであろう。「子供が主体的に何かを選択する」という言葉は子供の自由な振る舞いを語っているように思えるが、それは選択肢を提供している立場から見た場合であって、選んでいる子供自身からすればどうか。

不登校分科会からの流れでは、札幌自由が丘の高村さんがコロナ禍でのフリースクールの状況を話してくれた。一斉休校明けで「学校が始まるのはイヤだけどフリースクールは始まってほしい」と生徒が話していたというのが印象的だった。不登校だから学校には行っていないわけだが、どうしても学校のことを意識しながら生活しているわけだ。日本ではここまで社会システムを内面化するように人間を育てているのだなあ、と思った。(水曜日)