漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

愛されなくてもいいじゃん

■雲が高い。風が冷たい。もう夏は終わったのか。ビアガーデンへ行かないうちに。それともふたたび暑くなるのか。ベランダのズッキーニはすべての力を使い果たしたのか、もう枯れはじめている。さようならズッキーニさようなら。


■北海道NPOサポートセンターが「子どもに愛される『子ども食堂』のつくりかた」という連続講座を開いている。設立、運営のノウハウを教えてくれるようで、そういうの大事だよなと思いながら、どうしても別のところへ目が向く。

■「子どもに愛される」。これ、誰が考えたのかな。フリースクールではおそらくこういう惹句はつけない。おそらく「子ども中心の」「子ども主体の」になる。「地域住民に愛される食堂」「サラリーマンに愛される定食屋」だとそんなに違和感がないし、「子ども中心の学級運営」なんていかにもなので、単純に食堂をメインとするか教育をメインとするかの違いなのかもしれない。でもなー。「地域住民に愛される食堂」は結果だけど、「愛される『子ども食堂』」の「つくりかた」だからなー。びみょうに操作のにおいがする。「愛される私になれる本」みたいな。

■「子ども主体」と謳ったフリースクールがまったく大人主導だったなんてこともある。看板と中身が同じとは限らない。ただ、この「愛される『子ども食堂』のつくりかた」は、俺が、子ども食堂を評価しつつ、一歩(四、五歩?)引いてしまう理由を図らずもよくあらわしている。「あたたかみ」「だんらん」「みんなで一緒に」「人と人とのふれあい」、そして「愛される」。万事おしつけがましいんですよ。

■もちろん「子ども主体」だって大人の都合なんだけど、活動をおこなう上での根本の思想なので、「子どもに愛される」とはちと違う。「こうしたい」と「こうされたい」は別ものでしょう。「こうしたい」が高じて無茶をさせるということもあるけど、「こうされたい」のべたっとはりついてくる感覚はどうもダメ。それってホラーだよ。愛されなくてもいいじゃない、別に。などとごちゃごちゃ述べてますが、要は俺のなかのドサ健が顔を出した、いつものアレです。

「なんでえ健さん、水臭えや」と親爺は又続けた。「ひとこといってくれりゃ、長いなじみじゃねえか。博打のコマぐらい裸になったって廻してやるのにさ」
「ありがとよ、親爺―」とドサ健がようやく口を開いた。「だがそうはいかねえんだ。手前にゼニを借りるぐれえなら押しこみでもすらァ。フン、長いなじみだと、馬鹿野郎、俺が酒を呑んで、手前が酒を売ってただけのつきあいじゃねえか。俺ァ、いいかげんなことで、人と慣れ慣れしくする野郎は大嫌えだ」

阿佐田哲也麻雀放浪記(一)青春編』(角川文庫)