漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

日誌「旗色不鮮明」について

hyouryu.hatenablog.jp
■以前に書いた上の日誌について、Twitter(現X)上で二次加害になっている考え直すべき点について東京シューレ性加害事件の原告さんから言及がありました。何度も繰り返し二次加害を受けてきて苦しんでいる姿を知っているのに、また一つ同じことを起こしてしまったことについて、大変申し訳ありませんでした。Twitter上でのやりとりは望まないということであったので、日誌上で書いておきます。

■まず、二次加害を考える際の指針として、この記事を読み直しました。
www.bengo4.com

「あらゆる二次加害が加害の自覚なくおこなわれます」「被害者が『二次加害だ』と言えばそうなんです」「被害者の言葉をそのまま復唱するということ」これらの言葉を指針として考えていきました。

■日誌前半は構造の問題を考えることについて書いています。後半は自分自身が今後どう加害者と付き合っていけばいいのかという葛藤について書きました。その際、後半は被害者が置き去りになっていると指摘がありました。

■第三者と加害者の繋がりが、コミュニティ内で加害が起きやすい環境を作り事件が矮小化されること/加害者が自分の問題と向き合ったり反省したりする機会を失うことになること/加害側のそうした繋がりにより結果的に被害者の方を業界から排除し孤立させてしまうこと/こういった「構造の問題」によって起こる二次加害はその通りあります。自分も二次加害は無いようにしたいと思っています。その時、第三者として加害側と繋がることが二次加害に繋がるとすれば、加害側との繋がりを断つことが二次加害を防ぐことになると考えるのが自然だし、被害者はそれを望んでいるのもわかっていました。今後自分がどう生きるかという未来とこれまでどう生きてきたかという過去の整合性を取らねばならない時、様々な取捨選択をすることを自分は葛藤と呼んで書きました。その際、被害者が見る可能性を考慮せずに自分の内にある葛藤を可視化したことは、やはり二次加害でした。

■そうした葛藤を内心に持つこと自体を止めるのは今のところは難しいです。ただ、この時「第三者」という立場を雑に捉えていたことが、葛藤の可視化に注意を払わないことに繋がったと思います。「第三者」と言いつつ、葛藤が生まれているのは、加害者の方に比重は寄っているからであり、丁寧に考えれば被害者の側に比重を寄せて考えることが必要でした。それは潔癖主義とは違うことです。

■今後を考える時、今回のようなことがまたあるかもしれないという恐れが自分の中にあります。「あらゆる二次加害が加害の自覚なくおこなわれます」という言葉に立ち戻って、逐一他者からのチェック・批判を受け止めて、活動や発信をして行く中で、自分で「徹底的に被害に遭った子の側に立つ」と言うのでは無く人から「あの人・団体は徹底的に被害に遭った子の側に立っている」と言われるようになるのが目標になると考えています。

■なお、日誌は栗田さんの配信をきっかけに書きました。その栗田さんからもツイートをもらいました。栗田さんのツイートを読んだ時にちょっと言いがかりっぽくも感じたのは自分のかなり深いところに食い込んでいるファン感情からくるものでした。当時の筒井の発言に対して自分がしていたツイートを遡ると「老いたり」と批判しているものの、その後筒井の発言に徹底的にノーとは言わず別の人のツイート(誰かは失念)を見てギャグのつもりで言っているのかもと期待しているツイートもあったので、自分の鈍さの表れという点は否めません。(12/28水曜日)