■長々と生きていると世の中の基準が色々と変わっていくものである。タバコなんかは最たるものだろう。応接間に灰皿がおいてあるのは当たり前だったし、電車や飛行機の座席にも灰皿が備えられていた。職員室は煙でもうもうしていたし、職場だってそうだった。喫煙室なんてものが出来たのが三十年くらい前だ。今やタバコ飲みは吸える場所を探して汲々としている。で、タバコというものに対する世間一般の感覚も大っぴらには吸えない嗜好品という感じになっている。
■でも、自分の感覚が世間が変わるスピードに追いつかないことも多々ある。タバコのように場所や設備が少なくなり、値段が上がって経済的にもそれを嗜むハードルが上がるものは強制的に感覚もアップデートされるけれど、そうした物理的な実体の無い事柄が変化する場合は、アップデートが難しい。
■こんなことを考えるのは「一昔前は引きずってでも学校に行かせていたのが、今はずいぶん変わった」という不登校に対する語りを聞いたからだ。引きずってでも学校に行かせることをやってはいけないこととして自分の感覚をアップデート出来ないときに、「世の中が変わった」という認識はありますというところでおしまいにする。そこから「ずいぶん変わった」の方に自分を寄せることができるまでが、実態の無い事柄の時には一苦労なのだろう。
■多分これは不登校以外にも、ハラスメント感覚やLGBTQについての感覚もだ。それまで何の気無しに話していたことが話せなくなる感覚。これまで触っていたものは石ではなく実は卵でしたと言われれば、触り方に気をつけよう割れちゃうしとなるが、実体の無いもののときは「これまで大丈夫だったじゃん」となりがちである。
■自分の発言にいちいちフィルターをかけて話すのはもどかしいし自然じゃない気分だけど、自分を変えるというのは多分そういうことなのだろうと思う。(水曜日)