■今回の公開研究会では「不登校の子どもとフリースクール〜持続可能な居場所づくりのために」の内容を元に話すため、編著者の武井さんが最初にまとめて発表してくれた。
■長く経営を続けているフリースクールの中には、利用者を長く囲い込んで会費収入を伸ばしたり、子供の将来を不安視する保護者の不安を狙って「フリースクールに来れば○○になれる」などと成果を強調したり、引きこもりの引き出しのようなことをする「悪徳フリースクール」とでも言える団体がある。武井さんと共同研究者は、そうならずに長期間経営をしてきた謂わば「良きフリースクール」の特性を調べた。その結果、包摂性(生活困窮世帯や障害がある利用者などでも利用しやすい仕組みを持つ)民主制(利用料が使った日数分払うことになっている従量制料金であったり、利用者がミーティングを行って活動を決めていく)共同性(親の会などのコミュニティを団体の活動以外に作り出す)運動性(学校や教育委員会への働きかけや協働など教育制度変革を活動に取り入れている)の4つの特性を見出した。そして、経営が困難な時にこの4特性のバランスを変化させることで、経営を続けていると分析をしている。バランスのとり方は3つあり、事業多角化(フリースクール事業以外の事業を行う)事業精選化(フリースクール事業の内容を見直して収益を改善する)拠点拡充化(会場を複数構え多様なニーズに応える)となる。
■次に、実践経験のあるフリースクール研究者として富山大学の高山さんが、フリースクールを取り巻く状況とその課題というタイトルで話をしてくれた。高山さんが注目したのは本の中でフリースクールみなもの今川さんが提示した「『自由な教育』へのニーズは、少なくとも不登校の子どもたちに関して言えば、下がってきている」「不登校=学校からの『逃避』『アンチテーゼ』、フリスクール=不登校の子たちの受け皿としての『自由』な場、という従来の図式が変わりつつある」という仮説に注目していた。東京シューレに代表される初期からのフリースクールが思いを優先してお金を後回しにする運営をしており、4つの特性はその思いを活動に落とし込んだものと考えられる。しかし、その思いの中心にあった、自由を求めるニーズが変化しているとするなら、フリースクールの新しいアイデンティティが求められているのではないか、という考察をしていた。そして、教育機会確保法は新しいアイデンティティを作る際、普通教育に相当する教育を行う不登校の受け皿としてのフリースクールという形を作ることで公的な財政措置も可能になるという課題解決を示していた。
■さて、そこで漂流教室山田の出番である。自分がこの本を読んで一番感じたのは、どの経営改善策にしてもサービス対価として収入得るという学習塾的な、資本主義の論理に乗っかった話からは逃れられていないということだった。それは「良きフリースクール」の特性においても感じられる。例えば、親の会などで培われる共同性があるというが、その親の会の中で「一年通ったけど特に何も変わりませんでしたねえ」という話しは多分されないだろう。これは何を意味するか。また本の中でも、保護者が親の会や職員とのやりとりが子供の様子や変化がわかることへの感謝が語られている。経営改善は価格に見合ったサービスを提供するために行われるよう運命づけられている。しかし、元来そうした資本の論理を適用するのが難しいが故に、教育は共同体で行われているのだ。更に言うならば、子供若者の期間というのは、人間は肉体精神ともに必ず成長する。そうしたことを隠して、金銭で贖うべき価値がある事業を提供するので対価をもらえると考えることは、NPOであることが多いフリースクールとしてどうなのか。
■例えば、自然保護団体を考えてみると、自然は我々に何も提供してくれない。我々が自然の中に価値を見出しており、その存在を保護することに対して寄付などの支援を行うわけだ。ではフリースクールはどうか。不登校児童生徒に対する教育的支援を行うところに価値があるとするならば、それは塾の亜種でしかない。経営改善とか持続可能な運営と言っても、スタッフへの賃金確保の話しに集約されるのだとしたら、その実践は金銭の得られる方へ簡単に揺らぐだろう。それはフリースクールを利用することでこんな変化が起こったという商品としてのストーリーを形づくることだ。山田としては、フリースクールの価値はなんと言っても「自由」を提供するということと捉えたい。そして、それを不登校児童生徒に対象を絞るならばもう一つ、「休む」ということの保障機関として捉えたい。まず休みたいが故に学校に行かない、という大元のところを押さえたい。登校していない=休めているという勘違いを人はしがちだ。本当に精神の安らぎを得る時間を子供が手にするのは中々難しい。学校に行かず何もしていない自分、ゲームしかしていない自分、昼夜逆転している自分、このままではひきこもりになるかもと親を悲しめている自分、そんな自分の中にある道徳や倫理が己を苛んでいる状態で安らげるものだろうか。そんな時に、フリースクールに行くことでそこが保障されるということには価値があるだろう。しかしそれは客観的に見ると、何もせず変化を求めない時空間を保障するということである。ちょうど自然があるのと同じことである。だからフリースクールに金を払うというのは、自然保護をするようなものだと考えるのがいいのではないだろうか。
■というような話しをした上で、共同討議を行った。共同討議ではフリースクールForLifeの矢野さんも入り、行政との協同や利用費減免制度を維持するにはどうするか、広報をする際の留意点など実践している活動の話しをしてくれた。高山さんは普通教育と塾の違いは受益者に本人だけでなく社会も入るのが普通教育であり、故に無償であることが認められるという法解釈を話してくれた。フリースクールは実践を社会にプレゼンテーションすることで、社会が受益しているということを示すことが大事であろうとのこと。相馬の質問では、フリースクールが学習塾事業をすることで習い事の一環のようになり、大阪の塾代助成が入っていないかを尋ねていた。これは登壇していた団体以外からも、塾代助成がフリースクールには流れていないということがわかり、面白かった。相馬の日誌で補助金のことが書いてあるが、やはり直接機関へ金が行く仕組みでないとうまく回らないのよね。