■3.11のあと、こんなことを書いた。
■1月29日の日誌で、自分の子供時代を知る人がだんだん減って、自分のなかの「子供」も消えていくんだろうと書いた。一方で、突然、自分のなかの「子供」を終わらせざるを得ない子もいる。震災の報道で見た子らの子供時代をいつ、誰が語るのか。そう考えたら、学校だったりアルバムだったりといった、子供時代に戻れる装置の存在は大きいのかもしれない。
■だから学校には行った方がいいよという話ではもちろんないけど、いまのゲームや動画配信が子供時代のタグになるかどうかは、まだちょっとわからない。あまり子供向けにはつくられていないように感じるから。そして、自分の子供時代を覚えている人がいるという感覚のために、漂流教室は続けた方がいいんだろうな、とも。でも、これも難しくて、そんな人間がいる事実に耐えられないという時期だってきっとある。
■さらに、ここまで子供、子供と言い続けたけど、年齢は関係ない気もするしね。夜間中学に通うお年寄りだって、そこでの自分を覚えている人にいてほしかったりするんじゃないかな。
■ところで、俺はずいぶん手がかかる子だったらしい。それは「かける手があった」ということでもある。あちこちから子供時代の話をされるのはその裏返しだ。きっとかける手は多い方がいい。おそらくそこは間違いない。