漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

武装解除

■一昨日の茂木さんの日誌を読んで思い出した。小学5年生だったかな、好きな子が急に増えた時期がありました。それまではAさんだけ好きだったのが、BさんもCさんもDさんも、となりのクラスのEさんもFさんもかわいい気がする。こんなことでいいんだろうか。でもみんな別の人で、別のところが好きなんだからしょうがないよね。それより「好き」という特別なはずの感情がどんどん増えていく様子がおもしろかった。

■で、そのうち気づくわけです。自分の態度がAさんとBさんで違う。CさんとDさんでも違う。おなじ「好き」のはずなのに、そうか、相手によって「自分」も変わる。「自分」だって増えるんだと大発見した気持ちになりました。

■だが、野放図に増やせば矛盾も生まれます。そして中学1年、『ネコじゃないモン!』を読んで、なにがどうあっても、誰の前でどう態度が違っても自分は自分なのだと気づいたくだりは、ずいぶん前に日誌に書きました。
hyouryu.hatenablog.jp

■一方で、「上司」や「親」のような外から与えられた「役割としての自分」もあります。なかば変化を強要される、茂木さんの言葉を借りれば「モードを変える」「演じている」感覚。俺自身は「学校にいるときの自分」と「家にいるときの自分」の違いで悩んだことはないけれど、いま思うと、登下校のあいだにゆっくり変身していた気がします。学校が近づくにつれ「学校モード」を身にまとい、家が近づくにつれ「家モード」をまとう。だから移動時間はとにかくひとりになりたかった。誰かと一緒に登校するとか帰るとかは極力避けていました。

■それはいまも変わらないかな。訪問先から訪問先への移動時間。中学校から漂着教室までの移動時間。仕事が終わって家に帰るまでの移動時間。そこはやっぱりひとりでいたい。武装解除の時間がほしい。ひとりの時間と移動は意識的にとるようにしている(それができる環境なのはほんとありがたい)。いつも一緒に行動したり、しょっちゅう連絡取りあったり、LINEだなんだで家のなかまで外の人間関係が入ってきたり、複数アカウントでパッパッとモードを切り替えたりするのは、ちょっと大変そうだなーと思うのでした。もちろん俺の感覚が古いおそれはあるけれど、人間のそういう部分っていくら時代が進んでもあんまり変化しない気がするんだよね。あと、茂木さんの疲れを軽減するにはなにをしたらいいかな。