漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

孤立化PR

■多様な学び実践研究フォーラムで基調講演をつとめた岸見一郎氏の話を、山田は聴いたことがあるという。漂流教室を始めてすぐのときだと言うのだが、記憶にないので過去の日誌を読み返してみた。

断髪式6月30日
投稿者:山田 02/06/30 Sun 23:21:25
今日は山田、相馬別れて講演会を聞きに行った。相馬は不登校についての講演会、山田はアドラー心理学の講演会。

で、ぼくは講演会後に髪を切りに行った。夏向けに思い切って短くした。これがどれくらい短くしたかというと、飼い猫が飼い主だとわからなくて怒るくらい短くした。次に会う人は、怒らないようにしてくださいね。

これかな。だとしたら、記憶にないのもうなずける。この日は不登校ではなく、いじめに関する講演に行ったのだ。岸見さんは一体どんな話をしたのか。当時の通信をあさってみたが記録は残っていなかった。山田くん、15年前の講演内容を思い出せるかい。

■いじめについての講演は感想が通信に残っていた。どうも文章が拙いのだが、内容は今も通用するので転載する。(手抜きじゃありません)

2002年6月30日(日)
「いじめ・不登校・暴力―語ること、聴くこと、自分への尊敬の道―」と題した、横湯園子さんの講演会に行ってきた。会場は北海道大学
いじめの過程は「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階を辿るという話、「孤立化」の段階では、その子がいかにいじめられるべき人間かという「PR作戦」が取られるが、無意識に親も教師もその作戦に加担している、という話など、とても参考になる話ばかりだった。
教師の言う「いじめられる側にも原因がある」、親の言う「この子にも弱いところがある」などは、「PR作戦」の効果だという。そう考えれば、いかに多くの人間がいじめに参加していることか。
その中で、私が一番納得した話。子どもが大人と対等であると実感した瞬間が、自己受容のきっかけになるという話に付け加えて、横湯さんはこう言った。「でも、子どもたちは一方で、大人に依存したいとも思っているんです」。
私のメモには「生きる力みたい」と書かれている。実は、私はこの「生きる力」という言葉がどうも苦手だ。「もう僕たち知らないから。君たち、勝手に生きていきなさい」と、大人が手を離してしまったような感じを受ける。
小学校から「生きる力、生きる力」と連呼しているのを見ると、どんな過酷な世界に子どもを連れていく気なのか、と思う。もっと頼ってもらっていいんじゃないか。どうだろう。【相馬】

このころは一人称が「私」だったんだな。「子ども」って書いてるし。世の中に合わせようとしていた様子が見えますね。「孤立化」「無力化」「透明化」と「PR作戦」はあらゆるところで見られて、いじめなら憤慨する人も、生活保護受給者や在日外国人では進んで孤立化PRを買って出たりする。「本当に困っている人」論はその変形だ。

■そして、もうひとつ。「実はいいところもある」パターン。さんざん弱者を痛めつけるようなことを言うが、そればかりではない、違う面もあると持ちあげる。講演中に泣き出した赤ちゃんに優しい態度をとったとか、実はすぐれたビジネスマンだとか。これは、「そのような"いい人"が言うのだから、言葉はきつくても、主張には耳を傾けるところがあるのだろう」という形で、一周まわってPR作戦に加担する。構造が見えづらくなっているだけにタチが悪い。

■居場所とかつながりとか、地域の連帯とかいろいろ言うけれど、自分だって違う場面では孤立化に一役買っているかもしれない。さて、どう気づく。