漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

モヤモヤと

■1月6日(水)、「不登校の未然防止と社会的な自立に向けて」と題した講演会へ行ってきた。札幌市教育センターの主催で、講師は大阪市立大名誉教授の森田洋司氏。国の「不登校問題に関する調査研究協力者会議」の主査でもある。ちえりあのホールがほぼ満席だった。教師が多かったように思う。

不登校は誰にでも起こりうるものである。個人や家族に固有の問題があるわけではなく、家庭、学校、社会の問題が複雑に絡まって生じる。集団や社会への「不適応」という言い方は原因を個人に求める。そうではなく、「ミスマッチの状態」なのであり、対応は社会的なつながり(ソーシャル・ボンド)を紡ぐことが基本になる。原因探しはほどほどに。原因を探して予防するという対応ではなく、現在から未来を考えた対応が大事。要因や背景は複雑に重複しており、対応は一様ではない。トライ&エラーへの理解が肝要である。

■以上が森田氏による不登校の捉え方の基本になる。ソーシャル・ボンドはもともとアメリカの社会学者が提唱した逸脱についての理論で、それを森田氏が不登校に応用したとのこと。さて、この捉え方をもとにどう支援、指導していくか。

■「不登校問題に関する調査研究協力者会議」では不登校対策にの目標を、登校という結果のみを最終目標にするのではなく、社会的に自立することに置いている。それは「自分づくり」の過程でもある。そのためには、ライフステージを通じた支援計画と、社会的空間へのつながりが重要になる。

■ライフステージを通じた支援計画では、まず不登校は「心の問題」にとどまらず「進路の問題」と捉えるべきである。不登校だった時期が現在の自分にマイナスの影響を与えているか、という追跡調査では、希望通りの学校や職業に進んだ場合、肯定的な回答がなされている。

■社会的空間へのつながりに関しては、社会や集団と当事者のあいだに「意味のあるつながりの糸(ソーシャル・ボンド)」を形成し、実感する。それは「居場所」の構築である。不登校とは、子供にとって学校が行くに値するところだと思えるかどうか、という問題である。「社会との関わりの形成」という「一連の過程への支援」という視点が大切になる。

■その後、ソーシャル・ボンドの説明が続いたがそれは割愛して、最後は学校における不登校対応の基本的な考え方について。

■基本になるのは一人一人のニーズに対応した「効果的な支援計画」であり、そのためにアセスメントが重要になる。一旦、欠席状態が長期化すれば、その後の回復は難しい。長期化する前の初期段階から計画的な支援をする必要がある。中学校で不登校になる生徒の多くは小学校時代にその萌芽がある。そこへいかに介入するか。担任個人が抱えるのではなく、SCやSSW、福祉関係者、NPOなども含めた組織で対応することが大事である。そのためには、「同僚性」という信頼に基づく人間関係資本を蓄積し、職場で気楽に相談しされるようなインフォーマルな場の創出とモチベーションを高めることが重要。

■それぞれを聞けば、そうかもしれないという気もする。しかし、講演を通して振り返ると、どうにも違和感があった。

不登校は多様な問題が複雑に絡み合って起きる。原因を探すより、これからを考えた方がよい。なぜなら不登校は「進路の問題」だからである。そのためには、学校とのソーシャル・ボンド形成が重要。欠席を長期化させないよう、早期介入する必要がある。つまり、学校へ来させよ。そして休ませるな。少々イジワルだが、森田氏の話はこのようにも取れる。「進路→学校」「社会→学校」という図式がまったく揺らがないので、「ライフステージを通じた」とか「社会的空間へのつながり」とか言ったところで、すべて学校へ結びつく。『不登校の解決』という問いの立て方をしているうちは仕方ないのかもしれない、とも思う。学校へ行ってない状態を『不登校』と呼ぶのだから、『解決』は学校へ行くことしかない)

■一旦、立ち止まって自分のことを考えてみるという経験を森田氏はどう考えるのだろう。休みが長期化すると戻りづらくなるのは、学校のシステムが影響していないのか。「不適応ではなくミスマッチ」と言いながら、対応策では生徒個人の問題として扱っているように見える。「社会→学校」の図式を動かそうとしないから。

■日本は減点方式の国である。加点方式にして、生きているだけでOK、そこから先はすべてすごいこと、と認めていかないと自己肯定感は育たない、という話があった。先生が一生懸命がんばりすぎなくてもうまくいくような学校でなくてはいけない、という話もあった。かつては遠足だったが、今は校外学習活動と呼ぶ。「遊び」の要素がなくなって、教育に潜在する離脱空間への巻き込みがなくなった。それが学校とのかかわりが弱まった一因でもある。そういう話もあった。そうだね。俺もそう思う。でも、社会構造を動かしましょうという話にはならない。だったら、いつまでも減点方式で、先生は忙しく、学校に遊びは生まれないだろう。聞こえのいいことを言いながら自己責任に誘導されているようで、モヤモヤした。