漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

不登校児童生徒支援連絡協議会その2

■1月20日(金)、道教委主催の不登校児童生徒支援連絡協議会に参加した。内容は18日に山田が参加したものとおなじ。

hyouryu.hatenablog.jp

■新しい生徒指導提要については東京都教育庁の資料が見やすい。まず「生徒指導」を定義。

生徒指導は、児童生徒が、社会の中で自分らしく生きることができる存在へと、自発的・主体的に成長や発達する過程を支える教育活動のことである。なお、生徒指導上の課題に対応するために、必要に応じて指導や援助を行う

生徒指導の目的は、

児童生徒一人一人の個性の発見とよさや可能性の伸長と社会的資質・能力の発達を支えると同時に、自己の幸福追求と社会に受け入れられる自己実現を支えること

であり、そのためには「児童生徒一人一人が自己指導能力を身に付けることが重要」だとする。「自己指導能力」とは、

児童生徒が、深い自己理解に基づき、「何をしたいのか」、「何をするべきか」、主体的に問題や課題を発見し、自己の目標を選択・設定して、この目標の達成のため、自発的、自律的、かつ、他者の主体性を尊重しながら、自らの行動を決断し、実行する力

を指す。

■生徒指導が「自分らしく生きる」のを支えるものとは知らなかった。そのほか「自発的」「自律的」「主体的」「自己理解」と個人の強調が続くが、そこにふわっと「社会に受け入れられる自己実現」なる文言が入る。確かに、他者を傷つけるのが目的な自己実現は困る。だが、はじめから「社会に受け入れられる」と枠をはめた「自己」は本当に「自己」なのか。

■そこへもって「自己指導能力」。「能力」の二文字がくせものだ。「自己の幸福追求と社会に受け入れられる自己実現」ができなかった者は、自己を指導する能力が足りなかったことになる。主体的に問題を発見して自己の目標を設定し、自発的にかつ他者を尊重して行動できないから、社会に受け入れられないのだと。典型的な能力主義論と自己責任論。生徒指導はそれを内面化させる。

■自分の人生を自分で切り拓けるのはきっと楽しい。だが、それは一定の条件がそろってのことで当たり前のものではない。そう言うと、次に「支援」が飛んでくる。環境を能力をサポートしてやれば、きっと自己実現が可能になる。「不登校児童生徒支援連絡協議会」の名前のとおり、話は不登校支援へ向かう。

■生徒指導の構造は「2軸3類4層」で示される。図は東京都教育庁から引用。

まず時間軸でふたつに分ける。これが山田も書いていた「リアクティブ」と「プロアクティブ」で、要は「早期発見・早期対応」と「未然防止」の言い換えだ。次に対象の児童生徒でみっつに分ける。すべての児童生徒を対象にした「発達支持的生徒指導」、すべての児童生徒対象の未然防止および一部児童生徒の早期対応をあわせた「課題予防的生徒指導」、特定の児童生徒対象の「困難課題対応的生徒指導」。このうち課題予防的生徒指導を早期発見対応と未然防止に分け、生徒指導の4層とする。

不登校を問題行動と見なしてはならないとの見解この協議会でも出た。不登校の背景には多様な問題があり、アセスメントにもとづいて、個に応じての具体的な支援が重要となる。支援の目的は学校復帰のみではなく、社会的自立(精神的自立+経済的自立)であり、これは「児童生徒一人一人の個性の発見とよさや可能性の伸長と社会的資質・能力の発達を支えると同時に、自己の幸福追求と社会に受け入れられる自己実現を支える」生徒指導の目的とも合致する。

■それを生徒指導の4層に当てはめるとこうなる。図は生徒指導提要より。

内容はこれまでのものと大差はない。「困難課題対応的生徒指導」の層では連携先としてフリースクールの名も挙がっている。

■と、長々と書いたが、あまり意味はないなと思っている。というのも、結局、後半の実践報告やグループ協議では「どうやって学校に来させるか」が語られていたからだ。これはある意味しかたない。「不登校」から入れば支援による改善はやっぱり「登校」になる。学校現場ならなおさらだ。おまけに生徒指導提要にこうあるのだ。

したがって、不登校で苦しんでいる児童生徒への支援の第一歩は、将来の社会的自立に向けて、現在の生活の中で、「傷ついた自己肯定感を回復する」、「コミュニケーション力やソーシャルスキルを身に付ける」、「人に上手に SOS を出せる」ようになることを身近で支えることに他なりません

いくら不登校は「問題行動」ではないと聞かされたって、自己肯定感が傷つくの、コミュニケーション力がつかないの、SOSが出せないの(どれもできないから『支援』が要る)と言われりゃ、不登校自体は「問題」と思う。学校に来させて問題が改善するならそれを目指すだろう。「学校に来られない」「登校できるようになった」と何人から聞いたか。学校に戻さなくてはと考えているのだ。

■通して参加して、「支援」なる言葉はよくないなとあらためて思った。「学校復帰」ならば「学校に戻すのが本当の解決だろうか」と自問もする。だが「支援」はどうか。いろいろ大変そうだから助ける。これに抗うのは難しい。「支援」の向かう先と「支援者」の立ち位置は深く問われず、「ここまでおいで」と児童生徒を引っ張る。「自己指導能力」のおまけをつけて。

■「いろいろ大変そう」と書いたが「多様化」もまた危うい。「不登校の要因は多様化している」と生徒指導提要にも何度も出てくる。多様「化」したかどうかは置いといて、多様なのはそうだろう。だって、子供は一人ひとり違うのだから。そして、そもそも多様な子供の通う先が「学校」なんじゃないのか。「不登校の要因は多様化している」と言ったとたん、学校の在り方は隠れて見えなくなる。それは「支援」の方向、「支援者」のスタンスのあいまいさとリンクする。

■以前、山田が学習指導提要を評して「ステルス学校復帰」と通信に書いた。指導提要に限らない。「支援」「多様化」の文言はかかわりをあいまいにさせ、「主体性」に隠して子供に「自己責任」を埋め込む。「自分の人生を自分で切り拓くのはきっと楽しい」と書く俺も、おそらく能力研鑽による自己実現を当然視している。言葉から見直さねばならないと思った3時間の会議でした。でも、ちょっと疲れちゃった。(1/24 夜)