■山田の日誌の遅れはどうにかならんかのう。遅れても濃い内容ならまだいいのだが。と、言いつつ俺も手抜き。facebookに投稿したものを加筆修正転載。以下。
■先日北大の講義で、「不登校」の当事者には子供と保護者と教員の三者があり、どの立場で見るかによって課題も変わる、という話をしたところ、クラスメイトも当事者に入るのではないかという意見が出た。
■なるほどそれは面白い。クラスにいるべき人がいない、という点ではクラスメイトも当事者と言えるかもしれない。(あまり評判のよくない)級友からの手紙作戦やお迎え作戦も、この視点に立ってなら理解できる。
■では、家庭にも同じような隠れた当事者がいるだろうか。パッと思いつくのは親族だ。祖父母や親戚との軋轢はよく聞く。クラスメイトの場合は「本来いるはずの人間がいない」という問題になるが、こちらは「本来(学校に行っていて)いないはずの人間がいる」という問題になる。
■小さいころのこと。祖母の家は風呂がなくて、泊まった日はいつも銭湯へ行った。浴場には小さな扉があり、子供はそこを通って男湯と女湯を行き来できる。これってつまり、子供とはどこにいてもいい存在だ、ということでしょう。
■子供がどこにでも行けるのは、見ること自体が大事だからなんじゃないのか。行ったり来たりできなきゃ見られない。そうやって自由な往来の中で次第に自分をつくっていく。小学生高学年や中学生じゃさすがに銭湯の扉はくぐれないが、成長の途中という点では同じだと考えられないだろうか。
■どこにいてもいい、ということは、どこにいなくてもいい、ということでもある。所属と役割は外からの要請で、それはそれで大事だ。でも、いろんなところにいて、またはいなくても許されるという余地も残しておいてほしい。「いるはずの人間がいない」「いないはずの人間がいる」という落ち着かなさもわかるが、家と学校と(あとフリースクールも)くらい、まだ好きに行き来できたっていいんじゃないか、と思うのです。