漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

Confusion will be my epitaph.

デヴィッド・ボウイがいなくなり、プリンスが去って、さらにグレッグ・レイクか。

年を重ねるとはそういうことだから仕方ないけど、毎年毎年、好きだった人たちや影響を受けた人たちが少しずつ減っていく。最近、テレビを見ていて「この人、もう××歳じゃなかったっけ」と思うことが増えて、ふと、父親も同じことを言っていたなと思い出す。そういうものなんだね。

■この日誌を始めたころ、ずいぶん「当事者」という言葉に噛みついていた。不登校を例にとれば、「不登校」という問題の中心は学校であるからして、休んでいる子供も保護者も、担任の教師もクラスメイトも全員が当事者になる。なぜ不登校の子供だけが「当事者」と呼ばれるか。当事者なんてあいまいなくくりではなく、個人として話せと書いた。でも、いまは「当事者」が大事かなと思う。

フリースクール不登校と関係ない。利用者が不登校なことはあっても、不登校に限って受け入れる団体ではない。そこが適応指導教室との違いだ。教育機会確保法の前身であるオルタナティブ教育法案は、フリースクールフリースクールを正当な教育機関と認めよと要望したもので、主体と中身が合っていた。それが教育機会確保法になって、フリースクール不登校についての法律を求める「ねじれ」が生じた。

■確かにフリースクールの利用者に不登校の子はいるだろう。だが、それがみなを代弁はしない。だからこそ反対運動が起きたが、反対している人たちも、やはりみなを代弁はしない。多くをおいてけぼりにして、「不登校」が議論され法律になった。

■あれだけ声高に叫んでいた「当事者=不登校の子」はどこへ消えたのか。個人として話す社会にはならず、「当事者」も消えて、残ったのは「正当な代弁者」競争だ。もう一度、「当事者主権」から始めないといけないのじゃないか。ひたすらな混乱のまま終わらせないためには。