漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

『いじられる』ということ

■ボランティアスタッフの坂岡です。自分の親戚に、子どもと仲良くなりやすい青年がいます。彼曰く、「最初に自分からバカなことをする。そうすると、向こうもはっちゃけたことをするので、あとはこっちがツッコミ役にまわる」のだそうです。

■よく見ると、彼は子どもから「冗談めかした、理不尽かつ攻撃的な扱い」を受けていることが多い。そして、彼はそうした扱いに対して「ツッコミ」をいれます。要するに、「いじられている」のです。「いじり」と「ツッコミ」によって、子どもの攻撃性は、「笑いを生み出す関係性のゲーム」として、安全かつ生産的に昇華されています。

■ここでの「ツッコミ」の役割はなんなのか。「いじる」ということは「理不尽な攻撃性」のニュアンスを含んでいます。そうでなければ、「冗談」としての面白みが生まれないからです。しかし、この「攻撃性」に対して、「オイ!(笑)それは○×やろ〜!」と「反撃」できなければ、それは「私はあなたの攻撃性に耐えられず、破壊されてしまいました。」というメッセージを伝えることになります。それは、対等な関係性を暗示する「いじり」ではなく、相手を一方的に破壊する「いじめ」となり、攻撃者の側に「罪悪感」を抱かせることになるでしょう。また、「ツッコミ」は、相手のメッセージを理解していなければできないことなので、「つっこむ」ことができることは、「あなたの言いたいことは受け止めたよ」、「受け止めたうえで、俺は俺の考えをもっているし、あなたに万能的に支配はされないよ」ということを伝えることになります。

■小児科医で精神分析家のウィニコットという人が、「生き残る」という概念を提出しています。彼は、赤ん坊の早期発達を論じて、「無慈悲な攻撃性は愛の一側面であり、原初的な愛は無慈悲なものである」、「環境がこの攻撃性に耐えられない場合は、赤ん坊は自らの攻撃性を隠さざるを得なくなり、解離が生じる」としています。ウィニコットの言う「赤ちゃんの愛」は「破壊的」なのです。

ウィニコットは「攻撃性」の健全な側面を重視し、抑圧されるべきものではなく、環境によって「抱えられ」、「もちこたえられ」、「昇華される」べきものだと考えているようです。赤ん坊は、己が振るう攻撃性に「生き残る対象」の存在を実感することで、「万能的なコントロールの外に対象が存在している」ことを実感でき、「主体性と他者性」のリアリティを学ぶのでしょう。そしてやがては、「生き残った対象」に対して、真の意味での「思いやり」をもてる段階に到達すると言われています。

■攻撃性(aggression)を笑いの内に安全に抱えてくれる他者がいることによって、人は「自分自身」(それはしばしば、一見「悪」と見えるような攻撃性を含む)を偽ることなく、関係性において実感し、育てていくことができるのだと思います。(だとすると、アグレッションをもてない「よいこ」は、危険信号かも?)ウィニコットはまた、「遊べない人を遊べるようにすること」が「治療」だという価値観をもっています。これもまた示唆的だと思います。