漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

死のストーリー

■ロシアのウクライナ侵攻は色々な人の信条と衝突を起こしている。もちろん自分も。自分の中では非暴力無抵抗で死ぬようにというのが日本国憲法の説くところだと思っていたので、当然それに従っていくつもりであったが、現に攻撃を受けた瞬間には自分はどう動くかはわからぬだろうなとも思う。そうなったらイヤだなあとぞわぞわもする。

■ちなみに憲法第9条を発案したと言われる幣原喜重郎の回想録にはこんな一節がある。

そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
(中略)
武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

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非暴力無抵抗は「狂気の沙汰」であり、死の覚悟を求めるものだと発案者自身がわかっているのだ。普通は、どうせ死ぬなら生きる可能性に賭けて相手と戦うことを選ぶ。しかし、それこそが「軍拡競争の蟻地獄」に至る道であることを思う時、「狂気の沙汰」は非暴力か暴力かという問いが再び立ち上がる。この時、暴力にせよ非暴力にせよ、平和という目的に対して死を使うというのは、日本人の好みなのかもしれない。幣原の考えたことは、特攻精神のネガとしての平和憲法とも言っていいのではないか。ただ、幣原は「死中の活を求める」という言い方で非暴力の中に生存の道を見つけるのだと言っている。これは非暴力で死から逃れるという難問を解けという、後世への彼からの課題だったのだろう。さて、自分に暴力があった時、果たして自分はどう動くか。逃げようとしてもやられてしまうとした時、抵抗せずにいられるのか。難しいだろうな。

■こういうことを考える教育が多分この国には必要だったのだろう。しかし、死という究極の個人的イベントを戦って死ぬ→国のためになるというストーリーに当てはめて死の個人性を消し去る教育しかしてこなかったこの国は、戦わず死なない道を考える/死にそうな時も戦わないという死の個人性を取り戻す重い課題に向き合ってくることは無かった。戦わない=負ける・死ぬという方程式が必然であるという刷り込みを消すということもしてこなかった。宗教も形骸化したこの国で、果たして今後どのようにこれを考えていくべきか。困った困った。(火曜日)