漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

2011年合同教育研究全道集会

■出席した分科会は、大体定点観測として出ている「子ども・青年の発達と教育」この分科会は学校現場における育ちの問題を総合的に扱っていて、その時どきにおける教師視点での現場の問題を反映しやすい。不登校分科会は、もともとここから枝分かれしていったもの。ここ数年では、特別な支援が必要な子供、就労支援、保護者との付きあい方といったところが問題になっていた。

■土曜日に発表されたレポートは二つ。一つ目は新学習指導要領に翻弄される現場の話。新しくなった学習指導要領では、かなり突っ込んだところまで学習目標が固定され、カリキュラムが形骸化し、教育委員会の指導主事や教員自身も硬直化したスーパーバイズに陥っている現状が紹介された。これは今年は地震原発で隠されていたけれど、来年辺り世の中で表面化するかも。

■教師の悩みのもう一つは、子供がコミュニケーションをうまく取れないという点にあるようだった。曰く、「気持ちを言葉であらわせない」「他者意識が弱い」「相手の話の意図をくみ取れない」等々。そして、掃除の反省を語りなさいと小三生に言うと、前もって考えてきた掃除の反省文のような文言を語ったので、「そういうことではなく、掃除をしていて気づいたことを言ってご覧」と指導したというエピソードが語られていた。ぼくはここにとてつもない違和感を覚えた。

■新学習指導要領の有る無しに関わらず、どうも教師の考えるコミュニケーションは、質問する側と答える側という設定があるようだ。そして、質問する側は、自らの問いかけが伝わるものであるかどうかは考える必要は無く、それを受け取る責任は答える側にあると考えているようだ。コミュニケーションは相互伝達であるのに、上意下達を本能的にできるように躾けるのが目的であるように見える。

■一方で、このレポートの後半にあった国語の教材研究で詩や俳句を読み解く授業は、とても面白いものだった。学習は上質のコミュニケーションになり得ることを実感させられるもので、子供らの感想も思考が弾んでいる様が良くわかる素敵なものだった。思うに、新学習指導要領など政策とは関係なく、授業の場と授業以外の場での教師-生徒のコミュニケーションの取り方を断絶させるものが、社会に存在するのではないだろうか。

■二本目のレポートは、高校教師が原発事故を受けて倫理の授業でディベートしたというもの。ここでも、新学習指導要領に合わせる形に授業計画を納める苦労が語られた。生徒は原発推進脱原発・縮原発の三派に分かれ、色々な資料(本当にたくさん!)を見た後に、ディベートの準備をして語り合う。教師は中立の立場で生徒を語り合わせるというもの。

■生徒たちがたくさん考えるのはいいのですが、教師が中立の立場でいるのって難しいですよね、というか中立でありえるの?という話が出て、難しいですねと発表者が答えてお終い。これはもうちょっと語ってほしかった。