漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

自己規定は共感を得ない

ゴジラサンタ

東海林さだおと一緒に近藤ようこのマンガも何冊かもらったのだが、こっちは漂着教室に持っていってない。手元において寝る前に少しづつ読んでいる。怖い。母娘の確執を描いた話は怖いよ。

■訪問先ではゴジラがサンタになっていた。プレゼントはくれそうもない。

■昨日はスタッフの上森さんと共に、道教大教育臨床専攻の学生の研究発表会へ行ってきた。IPCユリーカ主宰者でもある平野先生のゼミの学生が、不登校について書かれた論文を収集、整理し、様々な側面から分析をした。不登校群と登校群では「自尊感情」や「対教師適応」に有意差はない、という統計結果や、各機関の機能を論じた中でフリースクールだけは「目的」が存在しないなど(例えば適応指導教室なら『学校復帰』や『社会復帰・適応』が目的となる)、面白い発見がいくつかあった。特に、フリースクールの「無目的」さはいろいろな理由が考えられる。そのうち書こう。

■発表も面白かったのだが、発表の仕方はもっと面白かった。聴き手は児相の職員や養護教員、医者などその道のプロばかりで、そんな中で発表するのはさぞ緊張したろうと思う。ひとりは実際、「今すごく緊張してます」と言っていた。この「緊張してます」を言えるか言えないかで、関係はぐっと変わってくる。

■「緊張してます」と内面をぽんと言葉に出来る人は強い。こういう人は、応対にそう困らない。では、つまずく人は何が違うかというと、「私はこういうとき緊張する人なんです」というような言い方をする。自己規定してしまうのだ。

■内面の白状は共感を呼ぶが、自己規定は呼ばない(そもそも"感情"じゃないしね)。その人が自分をどう見てるかなんて他人には興味も関係もないからだ。関係ないこと言ってる暇があったらさっさと話せ、ということになってギクシャクする。または、こうも言える。「緊張してます」と言う人は、緊張している"今"を他の人と共有しようとする。それは互いに確認可能だ。しかし、自己規定の人は"自分の考える自分"を共有しようとする。それは他人には確認できない。見えないものを差し出して、共有しよう、と言っても無理な相談だ。

■人付き合いなんて、ほとんどはこういう細かい技術の集合で、だから学習と練習でどうにでもなるものでもある。「私は〜な人なんです」式の人を見てると、もっとやり方を変えたらいいのに、と思って、どうやったら子供らに伝わるかな、と考える。

■補足。自己規定は、自分で自分を治めるには役に立つ。悪いわけじゃない。ただ、他人に届くのは別のモノだよ、という話だ。