漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「態度」の罠

■結局、ネットには繋がらなかったよ。夜もう一度挑戦してみるが、うまくいくかはわからないよ。なので、今のうちに日誌の一部を書いておくよ。


■いろんな事件が起きてごたごたしてるドサクサに、「教員免許法および教育公務員特例法」「学校教育法」「地方教育行政法」の教育三法案が衆院教育再生特別委員会で可決された。今国会での成立は決定的だという。

■改正学校教育法は、義務教育の目標に「国と郷土を愛する態度」を養うことを謳う。愛国心を巡っては「精神の自由」の観点からずいぶん議論が交わされたが、「精神」より「態度」の方が実は危険だ。「精神」は目に見えないが、「態度」は測定可能だからだ。

■とはいえ、「態度」を測定する客観的な基準などどこにもない。結局、学習態度や、または「声の大きさ」や「おじぎの角度」といった、"分かりやすい"指標が持ち込まれることになる。一定基準に満たない者は、国と郷土への「愛」が欠けているとして指導対象となる。こうして、「態度」の評価は「心」の評価にすり替わる。別にここで指摘するまでもない。「服装の乱れは心の乱れ」と同じことで、「態度」の規定とは元々そういうものだ。

■スカートの丈や前髪の長さを測るのに汲々としてたように、今度は「国と郷土を愛する態度」の測定に汲々とするのか。そんな些末なことにかかずらなければならない生徒も教員も、全く気の毒としか言いようがない。服装や髪型は『ぼくらの七日間戦争 [VHS]』で済んだが、今度は何日間戦争にするつもりなのか。

■「態度を養う」の罠はもうひとつあって、「態度」というのはあくまでも、「内側から湧いてくる」「自発的」なものだったりする。「進んでやりましょう」というヤツで、これを教育目標に掲げると、往々にして過剰な競争とその反動としての排斥を生む。

■「国と郷土を愛する」とはどういうことか。それは法律で規定できることなのか。学校で教えることに馴染むのか。そういうことを全部棚上げにしたまま進む国会を危惧する。(5/18午前)

"愛"や"心"が誰にでも持ちえる了解可能な前提であることは勿論です。しかしそれがただ"愛""心"として無制限に使われるのなら、その"愛"が"心"が、どういう形で了解されているのかを不問に付したまま勝手に"了解されてしまった"のなら、それは、誰にでも持ちえるというそのことから逆に、他人を非人間として完全に排除する為の刃にもなりえるのです。
無限定な"愛"と"心"と"感動"は、そっくりそのまま、簡単にファシズムへと転化してしまうのです。
ファシズム軍国主義の別名ではありません。ファシズムとは、個人ということの規定を曖昧にしたまま、その個人という概念を、個人を排斥する為に集団が利用する詐術的なイデオロギーのことなのです。
だから私は、この国の"感動"を問題にするのです。


■昨日からしとしと雨が降り続いて寒い一日。寒いからか、「漂着教室」にも誰も来ない。静かだ。ながお君から借りた小説読了。

■「漂着教室」に誰も来ない日でも訪問は休みにならない。最近急激に背が伸びた中学3年男子、「力比べと、後ちょっと勉強もしたいんですけど」。ぶつかり稽古のようなものを何番かこなしたら、疲れたのか、結局勉強はしなかった。

■訪問終了後、あんみつさん宅に寄ってソファを譲り受ける。おまけにパスタとケーキをご馳走になる。ソファは「アウ・クル」の廊下端の休憩スペースに置いた。ソファを置きにだけ事務所に戻ってきた、というのも癪なので、また家でネットに繋がるかも怪しいので、日誌を書いていく。横では山田が会員制度の勉強をしている。(5/18夜)