漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ドサ健となる所以

■改めて7/11の日誌を読み返すに、確かにわからない。いや、元々はイベントの挨拶で、お愛想を含んでのものに違いないとわかってはいるのだ。それなのに、「地域」や「昔ながらの人間関係」という言葉を聞くと、ついついドサ健的な心持ちになって、何か言わずにはいられなくなる。

「なんでえ健さん、水臭えや」と親爺は又続けた。「ひとこといってくれりゃ、長いなじみじゃねえか。博打のコマぐらい裸になったって廻してやるのにさ」
「ありがとよ、親爺―」とドサ健がようやく口を開いた。「だがそうはいかねえんだ。手前にゼニを借りるぐれえなら押しこみでもすらァ。フン、長いなじみだと、馬鹿野郎、俺が酒を呑んで、手前が酒を売ってただけのつきあいじゃねえか。俺ァ、いいかげんなことで、人と慣れ慣れしくする野郎は大嫌えだ」

阿佐田哲也麻雀放浪記(一)青春編』(角川文庫)

■そうなってしまう理由のひとつは、翌日の日誌で山田が書いてくれた。加えて、あまり人間関係を強調しないでくれという思いもある。そうでなくても、世の中最近、変に人間関係至上主義なところがある。世間の言う「人間関係」をうまく築けず、苦しんでいる子も多いのに、余計な拍車をかけるのはやめて欲しい。また、教育で「地域」の語られる文脈がどうにも胡散臭い、ということもあるだろう。それについては、前にもいくつか書いた。
http://d.hatena.ne.jp/hyouryu/20041211#p1
 http://d.hatena.ne.jp/hyouryu/20041014#p1

■菊水のような雑然とした町並みは決して嫌いじゃないし、人間関係なんていらないと思っているわけでもない。だが、それが「昔ながらの人間関係が残っていて魅力的」になると、途端にドサ健が顔を出す。「地域」だの「昔ながらの人間関係」だの、何一つはっきりしたものじゃない。そんないいかげんなことで慣れ慣れしくするのは大嫌いだ。

■この感覚は何かに似ていると考えて気づいた。そう、「愛国心を持ちましょう」というのに似てる。町に感ずる魅力も求めるべき人間関係も、もちろん愛国心も、それ自体は自明のものではない。本来自明ではないものを自明として語るとき、そこにはこっそり「正しさ」が隠れていたりする。その「正しさ」は往々にして強制をし排斥をする。眉に唾する所以である。

■石狩かめの会の例会のはずが、昼に訪問が入って行けなくなる。ところが、訪問間際になってキャンセルが入り、今から石狩に行っても間に合わないし、仕方ないからセンターで作業をして過ごした。夜の訪問では、遠くで花火大会の音がドンパンドンパン聞こえていた。明日は有朋高校の学校祭に行ってみるつもり。