漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

疲れる頃

■風は強いものの、午前中は晴れて日が照っていたのが、午後からぐんぐん気温が下がり、夕方には雪が降り出した。4月下旬とは思えない天気。そりゃ山田の具合も悪くなるだろう。石狩かめの会に一瞬顔を出して、養生するからとすぐ帰っていった。

■午前中に説明訪問が1件。久しぶりだ。まあ、これから次第に増えていくに違いない。その後、かめの会に参加してから訪問2件。今週を振り返るに、受け持ちの新高校生が気になった週だった。まともに一週間授業を受けてみてどうだったか。遠くの学校まで自転車で通う積極性を見せた子あり、制服に着替えて訪問を待っててくれた子あり。今までと全く変わらない子あり。まあまあ、みなさん一週間おつかれさん。

■自身の高校1年を思い出すに、確か今頃、深夜テレビで鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」を観た。まだ高校生活に身体が馴れていなくて、疲れて眠くて、途中から夢か現かわからないまま観ていたのを憶えている。確か金曜の夜で、当時は土曜も授業があったから、ぼんやりした頭でバスに乗って学校へ行った。5月6月になれば身体もペースを憶えて、夜更かしも出来るようになるのだが、この時期はまだ負担がかかる。

■明日はフリースクールネットの講演会。問い合わせがずいぶん多いらしい。さすが人気の先生だ。

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』感想

■教育で少数なのは何も不登校に限った話ではない。切り取り方の問題だけど、俺や山田みたいに、学校が好きで授業が楽しかった、喜んで学校に行った、なんてのも相当分が悪い。それだけ学校に不満を持っている人は多い。こればっかりは学校に行ってるも行ってないも関係ない。立場を超えて、みんな学校を批判する。

■俺も仕事上学校とぶつかることは多い。学校に問題がないわけではない。だから、批判するなというつもりもない。ただ、釈然としないものがあるのも事実だ。学校を批判する言葉が、学校の他の部分を塗り潰してしまう感じがするからだ。例えば「学校でする勉強の必要性がわからない」という批判がある。それはいい。だが、そればかりが取り上げられると、いつの間にか「必要性」と「勉強」=「学校」のようになってしまう。それはかえって学校をいびつにさせる。

■極論すれば、今の学校は「学力」と「社会性」のためだけの場所である。学校を語る言葉はそれしかない。あまたの学校批判がそうさせた。だが、それは俺の好きだった「学校」ではない。学校はもっと豊かだったはずだ。そう思って、会議や研究会でいろんな提案をした。学校の良い点を挙げてみよう。学校について、自分の楽しかった思い出を話してみよう。「学力」と「社会性」を学校から切り離して考えてみよう、と提案したこともあった。そうでもしなけりゃ、こんなゆがんだ学校観、俺の中の「学校が好きだった自分」が納得いかない。

どれかを話せば相手が「ふーん」と神妙な顔で納得することはわかっているのだけど、それらの言葉にしたとたんに、自分の経験がものすごくウソくさい陳腐なものに思えてきて、イヤになる。言葉ばかりがどんどん遠くに行ってしまって、どんな言葉で説明しても、「わたしの不登校はそんなんじゃない」と思う。(p.14-15)

今のわたしが不登校のことを話しても、それはわたしが経験した丸ごとの不登校そのままではない。今のわたしにできるのは、わたしの中の、わたしの外の、「学校に行かない子ども」の声にせいいっぱい耳を傾けることだけ。そして、そんなわたしの立場から、言葉を発していくことだけ。(p.21)

■俺は不登校になったことはないので(勝手にサボってたことはあるが)、この本の著者のもどかしさはわからない。だが、同じ質のもどかしさは知っている。そうかあれか、と勝手に思ってそれだけだが、それ以上のことは特に大事ではない。今のところ。俺はこの本をそう読んだ。