漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

よし、よし

■底冷えする日が続いたが、今日は暖かい。春先のような陽気。

■高垣忠一郎さんの訃報がSNSに流れてきた。驚いて関係者に確認したが事実だとの由。

■高垣さんは長らく登校拒否・不登校問題全国連絡会の世話人代表を務め「全国のつどい」でもよく講演していたが、それより「自己肯定感」の提唱者として知られている。「自己肯定感」は俺にはピンとこなくて、おまけにいろんな意味でつかわれるようになったもので、なるべく触れないようにしていた。提唱者の高垣さんは「他者とともにありながら自分が自分であって大丈夫な感覚」と説明していた。自尊心とも自己効力感ともself-esteemとも違う。

https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2009/45-1_03-02.pdf

■リンク先は立命館大での高垣さんの最終講義の論文。これを読むときっかけは「自己否定」なのがわかる。人生を修復する主体は当人だが、ときとして自己否定がそれを阻む。自己否定のスパイラルにはまらないようサポートするのが支援の要で、心の内に「自分が自分であって大丈夫」と思える基地を築けるよう支援する。その基地を「自己肯定感」と呼んだ。さらに、その根本は「よし、よし」にあると言う。赤ん坊が泣く。まわりの大人が「よし、よし」と声をかける。「わかったよ」「大丈夫だよ」の「よし、よし」。そう声をかけられるうち、子供は自分で自分に「よし、よし」と言えるようになる。

■「自己否定」への対処で生まれた言葉だから仕方ないのかもしれないが、「自己」が話を面倒にした感がある。ここで「自力」のイメージがついた。自分で自分を肯定する「力」。なので自己肯定感が高いとか低いとか、能力のように語られる。だが、根本が「よし、よし」なのだから肯定感はまず他者から与えられる。他者由来だから「支援」もできる。

不登校について述べた箇所。

不登校や社会的ひきこもりは,人生や人間としての成熟の過程でのひとつの「つまずき」でしかない。人間はそうしたつまづきに出会うことを通して悩み,その悩みを通して自分とあらためて向き合い,自分と問答し,自分の生きるべき道を見つけ出していく。その過程そのものが成熟への道程である。だから,その成熟への道を励まし,援助するためには,安心して自分と向き合い悩めるように援助し,支えてやることが必要である。

ある不登校の子どもは,娘の不登校という事態に遭遇してオロオロする母親にこう言った。「お母さんは私が学校に行けなくなって悩んでいるのをみて,後から悩みはじめたのでしょ。そのお母さんが私以上にオロオロしたら,私は安心して悩めないじゃないの」と。

この子に限らず,いま,多くの子どもや若者たちは「安心して悩む」ことができなくなっている。それどころか,「つまずいた自分」を「ダメな奴」と否定し,責め,貶し,自分を嫌うような心境にまで追い詰めていく。そのことを問題にしたいのである。

「成熟」ってそういや最近聞かないかも。「成長」や「発達」はよく聞くけども。まわりが「成長」させようと焦ると、子供はなかなか安心して悩めないだろう。留まるな、先へ先へ、だからね。

■遅まきながら『BEASTERS』を読んでいる。動物を主人公に、現実社会のアンフェアな構造について、特に人種とジェンダーについて切り込んでいる。おもしろいのだが、どこか釈然としない部分もある。戯画化しているので、すべてが現実にぴったり符合するわけじゃないのはわかっているのだが、動物に託したせいでかえって見えづらくなったものがあるような。まだ物語中盤なので、最後まで読んで考えよう。