漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

意外とおしゃべり

イーロン・マスクに嫌気がさし、twitter(Xとは言ってやらん)に投稿しなくなって一か月。思った以上にあそこに書きたいことってあるんだなと驚いている。どれもたいした内容ではない。「今年はセイヨウオオマルハナバチ以外のマルハナバチを見ない」とか「道庁近くの並木にもプラタナスグンバイがいる」とか「どっかで花火の音がしてる」とか、もっとシンプルに「暑い!」とか、そんなどうでもいい話だ。まさに呟き、tweet


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twitter以前はこういった「話すほどでもないけど言いたいこと」をどうしてたんだろう。ちっとも思い出せないれけど、重要なものはメモして、あとは忘れるに任せていたんだろう。日記の習慣がある人はそこに書いたか。学生のころはたまり場に必ずノートが置いてあって、そこに書いていた。そういや漂着教室にもノートあったよね。いつの間にか書かなくなったけど。

■「声にする」喜びは確かにあって、twitterが潰れても似たようなサービスが生まれるだろう。というか、すでにいくつかある。思考や感情を言葉に置き換えて発信する。反応がある。その瞬間の感覚は替えがきかない。これまで「声」を取り上げられていた人たちは特に。

■一方で、自分の視界を思い知る。発信に思わぬ反応が来る。そんなことを思い、考える人がいるとは想像もしなかった。自分の経験則の範囲で発言し、批判される。鴻上尚史は「世間」と「社会」とを分け、現在もしくは将来の自分に関係のある人たちで構成されるのが「世間」、自分に関係がない人、きわめて関係の薄い人たちで構成されるのが「社会」と定義した。その区分を借りるなら、「世間」のコミュニケーションの延長で発言したら、実はそこは「社会」だったということだろう。

■男という「世間」に向けて話していたが「社会」には女もいた。日本という「世間」と外国も含む「社会」。外国を視界に入れたとして、先進国だってやっぱり「世間」だったりする。「社会」にはほかの国々があり、国には人が住み、人はそれぞれに違う。マクロからミクロへ、そしてまたマクロへと視界は行ったり来たりしながら、すでにそこにあるのに自分が見ていなかったものを明らかにする。マイノリティが声を上げやすくなったのはネットの功績だろう。だからこそ視界に入れたくない人たちからのバックラッシュも起きる。

■ところで、漂流教室の訪問は「世間」なのか「社会」なのか。直感的には「世間」だが、あの関係の薄さは「社会」をまとっていそうな気もする。鴻上尚史は好きなのに、これまであてはめて考えたことってなかったな。(9/4夕)