■ボランティアスタッフの坂岡です。昨日、自分がボランティアをしている中学校で、今年度最後の活動をしてきました。この一年子どもたちと関わってきて、いろいろな発見や「もっとこのテーマについて考えたい」ということに出会いましたが、今日は考えがてらそのうちの一つを書いてみたいと思います。それは、評論するということについてです。
■特に中高生男子は、自分の趣味の領域について語ることが好きです。漫画やアニメやゲームのどういうところが面白いか、シナリオや設定、キャラクターの特殊能力の練られ具合などなど。(女子の場合も語ることは好きだけど、主に「キャラクターの性格的な魅力」に焦点づけて語ること多い気がする。)
■面白いところも評価するが、「面白くないところ」もしっかり評価にいれてきます。たとえば、「このシリーズは、1は面白いが2は簡単になりすぎて駄作。3は面白いけど、1のほどのダークさはない」など。作品そのものについてだけでなく、人の評価について評価するということも行われます。「Aという作品を面白いというやつはBを見てから出直してこい」、「Cという作品をDと評価してるやつがいるが、それは設定をちゃんと読み込んでないからだ」など。
■自分はこの「作品を評論する」という営みは実は社会的に大事な意味があるなんじゃないか、と思いました。それをうまく言い当てることは難しいのですが、たとえば哲学者の西研が書いたヘーゲル入門書『ヘーゲル・大人のなり方』(NHKブックス)には面白いアイデアがありました。ヘーゲルは「文化的な表現および相互承認のゲーム」(これをヘーゲルは「ことそのもの」と呼ぶ)という考え方を示しました。これはどういうことかというと、自分の表現したものを、他者たちによる「表現と批評のテーブル」に投げ入れて、開かれた共同性の中で「本当の何か」を求め、鍛えあうということです(たとえば、「ほんとうの漫画」とか「本当のロック」とか)。人間の欲望は、単なる生理的な欲望なのではなく、「社会的なゲーム」に参加することでしか満たされない欲望なのであり、ルソーの言うような「社会に汚染されていない自然な善性」に基づく「完全に内発的な本性を開花させる」という発想はとりません。人間の自己意識はやがて「自分の正しさがまずあり→一方的に自分の正しさを認めさせる」ことから、「他者との相互承認の中でしか「本当の何か」は得られないのだ」ということを学んでいくのだというのです。(しかし、西研はこうも書いていました。人間は「学校教育や受験競争」のように、無理やり参加させられるゲームもある。自分の欲望とゲームのルールを照らし合わせ、ルールを創り変えたり、多様なゲーム(社会参加の形)をつくりだすことも必要なのだ、と。)
■他には、北山修の『共視論』(講談社)や、発達心理学での「ジョイントアテンション」(共同注意)という考え方。一つの外的対象について母子で共に注意を向けることにより、幼児は母―他者の心的状態や意図を読み取る能力を身につけはじめると言われています。
■うーん、あまりまとまりませんが、一つの対象を他者と共に眺め「評論」するということが「共同性」や「他者性」の獲得に向けた大切な営みなのではないか、と僕は思うのです。趣味や「遊び」について語り合うことは、バカになりません。社会(=すなわち、自分が否応なく参加しているゲーム)のルールを問い直し、自分の欲望や感受性とゲームの関係を問い直し、時には参加するゲームを変えたり、時には新しいゲームをつくりだしたり、「自分と世界の関係」を編み変えていくために必要な営みだと思うのです。