漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

<じぶん>の不思議

■我が家の二歳児が最近「ぼく」と一人称代名詞をつかうようになった。

  1. まわりから「Aくん」と呼ばれる
  2. <じぶん>は「Aくん」なんだと理解
  3. 自身を「Aくん」と呼ぶ

この流れはわかる。犬を指して「わんわん」と言うのと一緒だ。でも、一人称代名詞はちょっと違いそうだ。

  1. BくんがBくん自身を指して「ぼく」と言う
  2. <じぶん>を「ぼく」と呼ぶと理解
  3. 自身を「ぼく」と呼ぶ

1と2の間に飛躍があるでしょう。「ぼく」がBくんを指すのではなく、「ぼく」という言葉を発した人を指すとどうして理解するのか。名前と対象が一対一の対応ではなくなって混乱しないのか。

(『ぼく、どうしたの?』と子供に向かって一人称代名詞で話しかける人を通して『ぼく』は<じぶん>のことと理解した可能性もあるが、現在、まわりにそのような人が見当たらないので一旦除外)

■もうひとつ、「自分」という言葉も覚えたのだけど、これもやっぱり疑問がわく。

  1. 子供が「自分から」と言ったときの「自分」
  2. 俺が俺自身の意味で「自分でやるよ」と言ったときの「自分」

「自分」が<じぶん>を指すなら、他者がその人自身を指して「自分」と言ったときに、「それは『自分』じゃないよ」とならないか。だって「自分」は<じぶん>なんだから。存在そのものを指す代名詞を反射代名詞というけれど、反射の方向をなぜ間違わないんだろう。

■しかし、いくら俺が疑問に思っても、子供はそれを説明できないのだった。語彙や思考の問題ではなく、原理的に。「だって、そうでしょ」としか言えないだろう。俺が反射の方向を間違わないのとおなじだ。獲得後に獲得前の世界は想像できない。

■そして、あらためて「自分」という概念の不思議さに行き当たる。<じぶん>は「Aくん」なんだ。あるいは「ぼく」、「自分」なんだと思うときの<じぶん>ってなんだろう。名前がつく前からそれはあって(だから名前と対応する)、でも名づく前は呼びようがない。なので、この文では仮にそれを<じぶん>と書いている。

■それとも名前をつけられて初めて<じぶん>というものがあったのだと気づくのか。では、言葉を解さないうちは<じぶん>はないのか。感覚が発達し、外界を認識したときに<じぶん>も生まれるのか。でも、「外界」ってどこまでを指すのだろう。自身の手を認識するその前は手も外界なのか? 布団のなかでそんなことを考えるうち、寝てしまう毎日。