■3月と思えないほど暖かい。雨が冷たくないのだ。信じられる?
■訪問の様子。ある家ではダムをつくって雪どけ水をせき止め、ある家ではずっと将棋を指して終わる。
■10代向けの本を読んでいたらこんな文章にであった。
そしてある日、とくべつな「他人」があらわれる。ありのままのじぶんを見てくれる人。その人の前では、なにかの役を演じなくてもいいような人。わたしのほうだってその人のことをこういう人だって決めつけないで、ありのままのすがたで見ることができる人。わたしのすぐそばに、いちばんそばにいてくれるけど、わたしの場所はぜんぶそのままにしておいてくれる人
■漂流教室のかかわり方のようだなと思い、でもちょっと違うと思い直す。相手の場所はそのままにしておくけれど、一番近くにはいない。でも、たまに近くにいる。なにかの役を演じなくてもいいように、あるいは決めつけず見てほしいと思ってはいるけれど、実際どうなのかは相手次第だ。なにより相手にとって「とくべつ」な人間になるのを避けている。
■文章はこう続く。
とくべつな「他人」、わたしがその人とならありのままのじぶんでいられて、ふたりで「わたしたち」にもなれるような友だち
「ありのまま」は不登校の頻出単語だ。そして、漂流教室ではほとんどつかわれない。この日誌で検索しても7000件を超える投稿中11回しか出てこない。うち4回はよその団体のイベント名。用語として括弧書きがおなじく4回。『ジョジョの奇妙な冒険』のパロディが2回。地の文に出てきたのはたったの一度、しかもボランティアスタッフが書いている。
■漂流教室のつくる関係は、「とくべつな『他人』」と出会う前の練習なんじゃないか。そんな仮説はどうだろう。なにかの役を演じなくてもすむと思える練習。相手を決めつけずに見る練習。練習するのに安全は重要だから相手の場所は浸食しない。
■「とくべつな『他人』」がいるとして、そんな人がいるんだって思えなきゃ、出会っても気づかないかもしれない。気づいても「ありのまま」には振る舞えないかもしれない。いつか、ふたりで「わたしたち」になれる人と出会うための、ひとりとひとり。それが漂流教室の活動なのかどうなのか。そんなことを考えるのは楽しい。
■明日は大阪へ行く。フリースクールの経営について山田がシンポジストで登壇する。