漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ぼくは地球

■マンガの話の続き。『ぼくだけが知っている』の主人公、夏目礼智は今日の天気がわかる。地震が来ることを予知できる。彼は世界のすべてと地続きにつながっている。作中のセリフどおり「ぼくは地球」なのだ。

■おなじことが『わたしは真悟』でも描かれる。さとるとまりんの「ケッコン」によって意思を持った作業用の機械「シンゴ」は、世界中のコンピューターとつながり、さらに世界中の脳とつながる(■→▲→●)。森羅万象すべてを知ったシンゴは叫ぶ。「わたしは地球!!」

■自分と世界をわけない。自他も矛盾もなにもかも混然一体のまま全体をいっぺんに「理解」する。これが子供の理屈なのだろう。思春期を迎え、「自分」というどうしようもないものが内側から湧き上って、子供の理屈は消滅する。自分と他人は違う。世界は自分と対立する。そうしてアイデンティティを獲得し、ひとりの大人となる。礼智はあるできごとを経て、自分と他人ははっきり別物だと知る。「これはぼくの痛みであって君のじゃない。そうだろ?」 礼智の子供時代は終わりを告げ、マンガもそこで終わる。

他の誰とも混ざりたくなんかないもんね俺
俺は俺 人は人
何時でも何処でも誰とでも対立していたいの
ただ彼女だけが俺を優しい気持ちにさせるんだよ
俺に優しくすることを俺は彼女にだけは許すんだよ

■やはり吉野朔実の『恋愛的瞬間』から。俺はこのセリフが好きで、「自他をわけろ」とことあるごとに言ってきたわけだけど、これはやっぱり大人の理屈だ。たとえ必要な変化だとしても、世界と一続きでいる人には自分の一部を切り離せと言われたに等しい。それは暴力的すぎるんじゃないか。最近そんな気がしてきた。

■『わたしは真悟』は後半、現実なのか夢なのか判然としないまま物語が進む。このふたつをわけるのもまた大人の理屈だ。そもそも自分の身に起きているという点では妄想だって「現実」なのだ。『洗礼』や『神の左手悪魔の右手』など、楳図かずおは妄想と現実が入り混じった世界をよく描く。『わたしは真悟』では、世界は滅亡したと思い込んだまりんに、シンゴもまわりの人も巻き込まれていく。現実は妄想を生み、妄想が現実に影響する。どこまでが本当に起きたことなのか、作品では明らかにされない。ただ、まりんの子供時代は確実に終わった。

■幻覚、思い込み、虚言、妄想、認知のゆがみ。人はいろいろな言葉で「正常」と「そうじゃないもの」を切り分ける。それが「理解」への道だと思っている。俺もそうする。一方で、すべてをそのままに、ただ受け取ることはできないだろうかと、憧れにも似た感じで思う。さまざまな事件が主人公の身に実際に起きたようにも読め、妄想にとらわれた主人公がひとり騒いでいるようにも読める。楳図かずおのマンガを読むように他人を見れないものか。

■シンゴはまりんの妄想に感応して、世界を滅ぼそうとする。まりんを苦しめる現実を消すため世界中にミサイルを撃ち込む(繰り返しになるが、実際になにが起きたかは明らかにされない)。相手をまるごと受け取るのには、そういった危険もある。シンゴはまりんとさとるから生まれた「子供のコドモ」だが、それが全能の存在になるとはどういうことなのか。離れ離れになったふたりを必死でつなごうとするシンゴに、機能不全家庭における子供を重ねるのは無茶だろうか。■から▲、●へと成長するシンゴと赤ん坊の認知の発達も関連ありそうに思える。