漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

子供が終わる!

■何度もおなじ話で恐縮だが、生まれてから現在まで、自分が一貫しておなじ個体なのか確信が持てない。5歳の自分に6歳の自分。14歳の自分と15歳の自分。29歳の自分と30歳の自分。この世にはいろんな年齢の「自分」がいて、その歳に達したところで入れ替わっているのじゃないかという想像を止められない。

楳図かずおわたしは真悟』は、「子供の終わり」が大きなテーマとなっている。小学六年生のさとるとまりんは、社会見学先の工場で偶然出会い、一目で相手が運命の人だと悟る。その思いは子供時代限定であり、近いうちに終わりを迎えることもわかっている。まわりの大人は、小学生が恋愛なんてするわけがないと思い込んでいる。ふたりの訴えにも、子供の戯言と取り合わない。

■早くしないと自分たちの子供時代が終わってしまう。自分たちはいま子供で、子供だからこそできることがある。子供のうちにそれをしなければ、大人になってからじゃ意味がない。ふたりは「ケッコン」し、「コドモヲツクル」ことに決めるが、どうすればいいかわからない。子供が結婚して子供をつくるなんてことを大人は想像しないからだ。世の中には大人用のそれしかなく、子供に向けてはなにも用意されていない。それで、ふたりは自分たちだけの方法を実行する。

■大人は「まだものを知らない人」として子供を扱う。「無知」と捉えるか「純粋無垢」と捉えるか、どちらにしても世間知らずが子供の特性と思っている。子供だっていろいろなことを知っていると言う人でも、内容は大人の枠組みに限られる。だから、さとるとまりんの恋愛は疎まれ、「ケッコン」にはなんの用意もない。

その頃 僕は大人だった
本当のことを知っていた
だが 知っているのが僕ひとりであるならば
それは「無」に等しいと言うことを
この時の僕はまだ知らなかった

吉野朔実『ぼくだけが知っている』の主人公、夏目礼智は幼いころから世界が意味するものを知っていた。泣く自分を恥じ、しかしまわりの大人が幼児が自分を恥じているとは夢にも思わないことを知っていた。上に引用したモノローグで第一話は終わる。大人は子供の世界を知らないし知り得ない。子供の「本当」がわからないしわかり得ない。振り返ったところで大人の視点からしか考えることができないからだ。「もう、子供の時のわたし達には会えない」。

■子供が子供として要求するものを、大人は知ることができない。子供にかかわる仕事をしていて、この絶対に越えられない断絶をどうすればいいのか。考えすぎな気もするけれど、節目節目で自分が入れ替わっているのではと想像する身としては気になるわけです。それに、子供と大人がシームレスにつながっているのなら、物語や文化で頻繁にイニシエーションが登場する理由がない。

■先日、はじめて『わたしは真悟』を読み、いたく感心したのでした。ほかにも男女での子供時代の終わり方の違いが描かれていておもしろい。ここにも断絶がある。