漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

訪問妖怪説

■漂着教室に新しい利用者が来て、ピアノを弾き倒していた。あれくらい弾けたら楽しかろう。見学も一件。説明訪問の依頼も入って忙しくなってきた。

■国会については今はなにも言わぬ。腹を立てていることだけ書いておく。

■依頼原稿とか学会発表とか、いわゆる「外」の仕事も増えてきた。いま、俺の中では「訪問妖怪説」が熱い。でも、それを書いてわかってもらえるだろうか。訪問妖怪説とはこういうもの(↓)

漂流教室の活動を説明するのが難しい。していることは単純で、個々人の変化、成長にかかわる「他人」と「時間」を訪問とフリースペースを通じて確保する、それだけなのだが、なにがなにの役に立っているのかが説明できない。目的も見通しも持たない。人と人がただ会って一緒の時間を過ごすことそのものに重きを置いているので、「そこで自信を回復するんですね」とか「信頼できる人と出会って次のステップへ進むんですね」とか言われてもピンとこない。苦し紛れに「支援ではなく存在」「ほかの支援のあいだにあって、ずっとかかわれるところ」なんて言ってみたりするが、上滑りな感はぬぐえない。

■といって、無意味だとはもちろん考えてなくて、かかわっているうち当然子供は変化する。そのような「変化や成長への絶対的な信頼」がまずあって、あとは成長してこっちが不要になるまでかかわりましょうか、という準備があるだけだ。あくまで主体は子供で、こっちはおまけ。なのに「支援の意味」を問うと、それがひっくり返る。理屈を語るとどうしても支援者が主語になる。それで思いついたのだが、もしかしたら理屈より物語に仮託した方が伝わりやすいということはないだろうか。たとえば、

女の子がひとり部屋にいると、突然、部屋の隅から声がしました。「こんにちは」。びっくりして振り向くと、机の上の鏡に知らない女の人の顔が映っています。声はそこからするのでした。鏡のなかの女性は、毎週決まった曜日の決まった時間にあらわれます。はじめは気味が悪いと思っていた女の子も、いつしか鏡のなかの人とのおしゃべりが楽しみになっていました。不思議なことに、鏡の女性はほかの人には見えないらしいのです。それは女の子と鏡の女性と、ふたりだけの秘密の会話でした

またはこういうのとか。

山の上に大きな一本杉が立っていた。少年はその木が好きだった。ときおり山に登って、日々のできごとや思いを木に向かって話した。木の根元で昼寝をして過ごすこともあった。ある日、どうしても我慢ならないことがあった少年は、ひとしきり一本杉に不満をぶつけた。すると突然、はるか高いところから声が降ってきた。「それは大変だったな。どうにかしてやりたくても私はここから動けないが、これまでお前がどうやって暮らしてきたか、私はよく知っている」。それきり杉の木が口をきくことはなかったが、少年は今もときどき山に登る 

■適当な童話を思いつかなかったので即興でつくった(出来の悪いのはご容赦ください)が、どうだろう。この方が「よくわからないけど伝わって」こないか。

■これが親指としゃべってても豆ダヌキがやって来てもよくて、要は漂流教室は妖怪なんですよ。モノノケ。妖怪が一時期、子供と一緒にいた。そういうことにしちゃどうだ。元利用者に漂流教室の訪問(フリースペース)について訊くと、たいてい「あれはなんだったんだろう」と答える。現実感がない、と。大きくなると忘れてしまう。それも妖怪っぽい。

■面白いのは、訪問していたボランティアスタッフも「あれはなんだったんだろう」「不思議な体験をした」と、振り返って言葉につまることだ。妖怪から見れば異質なのは人間の方で、主客は簡単に入れ替わる。ボランティアの大学生もやはり成長の途中だ。お互いさまの妖怪体験を紐といたら活動内容を説明できたりするかな。そんな童話はあるだろうか。