漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

すれ違う理由

■先日、寺沢くんと少々長めのやり取りをして、結局すれ違ったまま終わったのですが、振り返っていろいろ思うことがあったのでまとめておく。

■俺が求めたのは「事実」です。寺沢くんはAだと言うがそれは違う。実際はBだと根拠を示した。一方、寺沢くんが伝えたいのはある種の「理(ことわり)」に俺には見えました。先週の日誌にも書いていましたが、人は自分のしたいように解釈するものであり、人と人が理解に至るのはとても難しい、と。誤解を防ぐためには寺沢くんなりの手法があって、それに則っていない議論は的外れで有害なものに思える。

■俺からすれば、事実はAかBかという話をしているのに理解だ解釈だと誤魔化されているように感じます。向こうからすれば、せっかく誤解を防ぐ道を示しているのに、なにを細かいことでワンワン噛みつくのかと映ったでしょう。警察と坊主の議論みたいなもので、そりゃすれ違うのも仕方ない。

■で、こうなるとちょっとおもしろいのが寺沢くんの書いた相馬評です。

次に相馬さん。繊細過ぎるんです。こちらには細やかな気遣いとか、よい形で表してくれるんですけど、相馬さん自身は実は超面倒くさい。「俺に対してこれはやるな」って言うのが多い。何様なのかと。そのくせ、こちらの繊細さとか面倒くささとかは平然とディスってくる。「俺はちゃんとクリアしたのにお前ったら」みたいな目線。いや、全然できてねーから。むしろ遠回りして私の方が先にクリアしたっぽいっすよ?

そうなんです。ここでも何度か書いているけれど、俺は基本的に他人に興味がない。極端なことをいえば、俺の邪魔にさえならなければなんでもいい。だから「これはやるな」という話が増えます。寺沢くんの「理」や「手法」も邪魔にならないから一切スルー。そんなことどうでもいいんだもの。寺沢くんからすれば、こんなに説明しているのに、なんでこいつは自分の主張ばっかりでこちらの話に耳を傾けないのか、「何様なのか」と腹立たしく思うだろうし、「どうでもいい」と言われれば「ディス」られたと感じるでしょう。

■一方で、やはりこの日誌に書きましたが、「人は人を邪魔するためにいる」と俺は考えている。「これはやるな」と言うけれど、そのとおりにことが進まないのはわかっている。それぞれがてんでに「どいて! どいて!」と言いながらもみ合って、進んだんだか進んでないんだか、ごちゃごちゃ混雑しているというのが俺の好む世界で、寺沢くんにはそれがひどく効率の悪いものに映るのかもしれません。「むしろ遠回りして私の方が先にクリアしたっぽい」というのはそういうことかな。

■「どいてどいて」方式は俺は好きなんですが欠点もあって、気をつけないと、声のデカいやつ、力のあるやつが勝ってしまう。寺沢くんがそのあたりも「クリア」できたのか興味あるけれど、なんと寺沢日誌は次回が最終回。誤解を防ぐ道は示されるのか。乞うご期待。あ、ひとつ同意したことがある。どこかで理解をあきらめた方が確かに視野は広がるね。

■追記。これを「学校へ行ったかどうかにこだわる大人」と「存在の承認を求める子供」に対応させることはできるだろうか。そんな簡単に事実と違うことを言われても困るんだよという俺の不満は、甘い顔をしたらこのまま学校へ行かなくなるという理屈とシンクロするか。読みなおして、ふと、そんなことを考えました。