漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

正しい不登校

■昨年、「#不登校は不幸じゃない」を仕掛けた人が今度は「正しい不登校のやり方」なるイベントをするそうで、さすがになんだかなあと思っている。「不幸じゃない」も勝手にジャッジメントするなと批判をあびたが、まだ世間の偏見への抵抗と捉えることもできた。でも「正しい」まで行ってしまいましたか。そうですか。

■昨年出た本の副題にも書いてあったので、意図して使っているのは間違いない。で、そこを狙いたい気持ちはよくわかるのです。なぜなら、親の会やフリースクールはこれまであえて「正しさ」を取り上げないようにしてきたから。それゆえ「正しさ」を欲する人たちがいるから。

学校は行かなくてもいい ――親子で読みたい「正しい不登校のやり方」

学校は行かなくてもいい ――親子で読みたい「正しい不登校のやり方」

■「学校に通うのが当たり前」「勉強して当然」「学校のルールは守るべき」…そんなたくさんの「正しさ」に待ったをかけた(かけざるを得なかった)のが「不登校」で、そのために「おかしい」「普通じゃない」といった偏見にもさらされた。なにが正しいか正しくないかではない。個人が個人としてどう生きるか、そこにまわりがどうかかわるかの話だと何年にもわたって訴え、ようやく文科省の通知にも、不完全ではあるが「不登校は『問題行動』と判断してはならない」「不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し」という文言が盛り込まれた。世間的な「正しさ」に苦しんだ経緯から、子供や保護者にその物差しをあてないことは、親の会やフリースクールではなかば不文律となっている。

■だが、現在進行形で悩んでいる人は、ときに「正解」がほしくなる。それが悩みというものだし、情報化社会の宿命でもある。役に立つのか立たないのか、あいまいな話ばかり聞かされてもモヤモヤは晴れない。ムダな時間を過ごすより、はっきりした指針、これという特効薬がほしい。そう思うのは人情だ。前段であっさり「親の会やフリースクール」と書いたが、なかには先生然とした人がいて、保護者の訴えにあれこれと説法するタイプのものもあった(俺のなかで勝手に『修行システム』と呼んでいる)。「正しさ」を避け続けるのは難しい。

■なので、「正しい不登校のやり方」という惹句を選ぶ気持ちはわかる。あきらかに求めている人がいる分、訴求力がある。

■だが、求めた答が得られるかはわからない。前にも書いたが、「明るい不登校」を思わせる。かつて「正しさ」のかわりに「明るさ」という評価基準が導入された。なにが正しいか、正しくないかは問わない。でも、せめて明るく元気であってほしい。「明るさ」は不登校に優劣を生み、目標となって子供と保護者を追い詰めた。「正しさ」は優劣と相性がいい。おなじ轍を踏むおそれは充分ある。

■正解を求めて追い詰められるなんてバカみたいと思うが、これまでの弱点をおぎなう妙案もない。それに最近じゃ教育機会確保法に沿った支援、対策が「正解」となりつつあるわけで、こんな説教じみた話ができた義理かとも思う。こんな逡巡も自己満足かという気もしたり、なんだかまったく冴えないな。


…と、「明るい不登校」はすっかり葬られたつもりで書いていたら、奥地さんの新刊タイトルがまさかのそれなの!? マジかー。ゾンビよろしく甦り。見た瞬間、血を吐いたぜ。