漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

第5回JDEC日本フリースクール大会 その一

■初日、基調講演あとのシンポジウムについて。演題は「子どもが語るいじめ」。シンポジストは東京シューレの利用者4人。司会はやはりシューレの奥地さん。

■ちょっと企画が荒かったという印象。シューレ人材で固めたことが裏目に出た。奥地さんが各人の状況を知りすぎていて、どうしても司会がシンポをリードする形になってしまう。「奥地さん質問→シンポジスト返答」の繰り返しで、奥地さんが会場に聞かせたい話を利用者にさせたように見えてしまった。もっとシンポジストに自由に話をさせた方がよい。

■4人に共通していたのは、学校に見切りをつけた最終的なきっかけが、教師への失望だったこと。決していじめがメインではない。教師が解決のために動いてくれなかった。教師からも疎まれた。そういう経験が学校から足を遠ざける決定打になった。

■一方、フリースクール見学のエピソードを聞くと、だいたいが悪いイメージを持って来ている。カツあげされるのではないか、とか、暗いやつばかりいるんだろう、といったような。それが想像と違って楽しそうだったことで利用を決める。

■人が動くのは「裏切られた体験」によるのじゃないか、と聞いていて思った。教師は助けてくれると思っていた。その期待が裏切られて、学校に行かなくなる。カツあげされると思っていた。その不安が裏切られ、フリースクールに通うようになる。方向が違うだけで、両者の動機は同じだ。教師がダメだとか、フリースクールがいいという話ではない。むしろ逆で、教師はそれだけ期待されているし、フリースクールは敬遠されているという証左だろう。

■だから、こういう世界ではイメージの悪い方がちょっとだけ得だ。ヤンキーの更生物語のようなことだ。だから、あえてヘイトスピーチをするような政治家が支持されたりするけれど、これは余談。

■後半は体罰を放り込んできたり、不登校の子どもの権利宣言を絡めてきたり、さらにテーマがぼやけてしまった。「大変だったら学校を休め」「学校以外にも場所がある」というメッセージばかりなのは、フリースクールでサバイブした人たちばかりなので仕方がない。何が体罰かをめぐって、「子供が納得できていれば体罰ではない」と「子供が嫌だと感じたら体罰」でシンポジストの意見が割れたのは面白かった。このふたつは、同じ思考の裏表でしかない。なぜそうなるのか。子供の頭は思ってる以上に固く、教育への順応も思った以上に強い、ということじゃないかな。彼らも、心の奥底に、体罰は仕方ないと思っている部分があるのだ。おそらく。

■「もし東京シューレでいじめがあったらどうするか」という質問に奥地さんが答えてしまったのは残念だった。時間がないという理由だったが、被害者は加害者にもなり得るとのだという、この質問こそがシンポの核なのではないか。