■自主夜間中学「遠友塾」がかかわっているということで、「学習権保障の観点で問い直す日本の教育」なる講演を聞きに行った。登壇者は三名。うちひとりは元文科省事務次官の前川喜平氏だ。教育機会確保法の成立にも関与している。
■「学習権は個人の持つ人権である。憲法は『教育を受ける権利』を定めており、国にはそれを保障する義務がある。『すべて国民』の文言は国籍を問わない。国際人権規約、子どもの権利条例がそれを補強する。『その能力に応じて』とは個々の違いを基盤とすることで、序列化ではない。また『普通教育』は学校に通わせると定めたものではない」。
■前川氏の講演はこのような話から始まった。そのとおりだと思う。だからこれまで何度も教育委員会に訴え、そのたび門前払いを食った。その理屈を文科の事務次官が言う。
■「行政は法律がなければ動けない。法律は議員がつくる。議員は市民が動かす。教育機会確保法は、夜間中学の関係者のたゆまぬ努力で議員が動き、立法によって行政が動いた。これが本来の民主主義の在り方だ」。
■これまたそのとおりだが、行政のトップが口にすると開き直りに聞こえなくもない。法律が行政の不作為の免罪符になってないか。
■という文句を前川氏にぶつけるのは間違っている。組織の在りようと個人は別だ。教育機会確保法成立でのはたらきを見れば、組織に埋もれず、教育への思いを貫いた人とも言える。実際、熱意はある。だからこそよけいにモヤモヤする。いいように丸められて不満の出口がない。(そういう意味ではいかにも行政の長らしい)
■質疑応答で、夜間中学で学ぶ90歳の女性がこう発言した。「私は学歴でいえば高等女学校まで出ているが、さらに学びたいことがあるから夜間中学に通っている。尊敬できる先生と学友に囲まれ、楽しく過ごしている。しかしマスコミでは夜間中学を『義務教育を終えていない人たちの学ぶところ』としか報道しない。それが不服だ」。
■前川氏の回答は、自主夜間中学にこそ真の学びがあるとか、学び合いの実践がされているとか、いささかピントがずれていた。そうじゃない。この女性は、「いまの私たちの学びを、過去の欠損の補填のように扱わないでくれ」と言ってるんでしょう。「あわれむな」と。
■この食い違いは、教育機会確保法における「不登校」の扱いに呼応する。「学校へ行けない子供」ではなく「いまの自分」を応援してくれという話なのに、それが届かないから抵抗が起きる。
■ブラジル人学校にかかわる人が以前このようなことを言っていた。「これまでの日本の外国籍児童生徒への教育政策は『来るものは拒まず』の『鯨と猿の平等』であり、公立学校に通うことは、外国籍の児童生徒にとっては単なる『お慈悲』だった」。法律をつくるのに枠が要るのはわかる。だが、その枠があわれみでできているのなら、誰がそこに入りたいか。「××できなかった人に支援を」という形はもういいよ。せっかく「学習権は個人の人権だ」という話から入ったんだから、それを基盤とした話がいい。