漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

漂流禅

■おとといの日誌がきっかけで『臨済録 (岩波文庫)』を読み始めた。すごい。なにを言っているのかさっぱりわからない。

また一人の僧が問うた。「仏法のぎりぎりの肝要のところをお伺いしたい。」師は一喝した。僧は礼拝した。師「お前は今の喝はいい喝だったと思うのか。」僧「山賊はぼろ敗けだ。」師「その敗因はどこにある。」僧「二度と賊を働いてはならぬぞ。」すかさず師は一喝した。

■週に一度、一時間の訪問を続けていると確かに子供は変わる。訪問しているスタッフも変わる。なにかをなそうとする必要はない。むしろ目的や役割は邪魔になる。ただ会ってただ一緒に過ごす。意味や意図を離れたところに漂流教室の活動の肝がある。

■とはいえ、そう簡単に無目的にはなれない。たいていは「困った子供の役に立ちたい」とはりきってボランティアに応募する。なにをするでもない。なにが起こるわけでもない。毎週、家を訪れては一緒にゲームをし、または雑談をして帰る。淡々と繰り返す営みに、一体なんの意味があるのか不安になることもある。そこをカバーするのが、ほかのスタッフとのおしゃべりだ。

■疑問や不安を抱えつつ訪問を続けていると、変化が起きる。あれだけこだわっていた「役に立ちたい」という思いが消え、当たり前のようにただ会いに行っている自分に気がつく。その変化を体系立てて理論的に説明できたら、わかりやすいし親切だと思うのだが難しい。

■訪問へ行く。不安が生まれる。それを話す。しかし解決はしない。わからないまま訪問へ行く。また不安が生まれる。また話す。そしてあるとき、自分がこれまでと違う境地にいると気づく。これまで話してきたことが、「わかった」ではなく、「すでにわかっていた」という形でつながる。全体を直感的に知る。今のところ、そういう方法しか持っていない。

■もちろんそれで終わりではない。また新たな疑問や不安がわき、ほかのスタッフと話す。ひたすらそれを繰り返す。

禅宗の知識はまったくない。坂口尚の『あっかんべえ一休』を読んだくらいだ。おととい書いたことだってもとは『子連れ狼』で知った。わからないままに読んでいるが、対話を通して悟りをうながすやり方に漂流教室と共通点があるかもしれない思った。人は耳から繰り返し入ってきたものを強く覚えるのではないか、という説を立てているのだけど、そこともつながるかも。まずは最後まで読み通そう。