■土曜午後のセミナーの中で、外国人からの相談を受けている人が差別的発言に対し「差別をしようと思って話したわけではないのだから」という擁護をすることについて話してくれた。こうした擁護によって差別が残るのはいかがなものかと考えていた。その夜、日誌に書いたハンズオンの話の中で、最近の子供が遊ぶ機会が少なくなっているという話から、昭和30年代の子供がどんな環境で遊んでいたか、当時のドキュメンタリーを流していた。その中で、路上で野球をしてホームランでガラスを割ってしまった子供に、ガラス屋のおばさんが「割ろうと思って割ったんじゃないからねえ」ということを喋っていた。この言葉をうけて、こういうゆるさが現代では無くなっているという話が出た。大人が緩くなることが大事だ、と。そこであれっとなった。昼に聞いた話と今の話、論理の組み立ては一緒だぞ。
■論理が一緒なだけで扱っている内容が違うのだから差別は認められないというなら、ゆるくていいこととゆるくてはだめなことの線引きをどこでつけるか。それをはっきりさせるのは、ゆるさを持つことと矛盾する気がするのだが。逆に、この論の組み立て方がいかんというなら、どう語ればいいのか。
■この論理では、「差別的発言をした人は何故それを発言せねばならなかったのか」「何故その子は路上で野球をしてしまったのか」という点は不問に付されている。失敗を生んでいる環境要因は無視して、本人にその意図が無かったことのみで許そうとしている。許すのはいいが、同様の失敗が起こるかどうかは本人次第というのでは、いずれどこかで同じことが繰り返されるに決まっている。
■また、この擁護の仕方は、今回はまだ分別が無かったが仕方ないが今後はやらないだろうという、失敗した人の成長を前提にしている。これは、やってしまったことが悪いことであるという共通認識が必要だ。それが無いのにこの擁護の仕方をするのは、逆に差別やガラス割りを守ることになる。
■ハンズオンのやっていることはとてもいいなあ、と思いつつ、セミナー後に会った人たちとこんなことを考えながら帰ってきたのでした。(火曜日)