■あれ? 日誌を書いたはずなのに書いてない。じゃああれは夢だったのか。「さっぽろ子ども・若者白書」が完成して、記念シンポジウムに行ってきた。詳しくはのちほど。(4/18昼)
■ということで追記。「さっぽろ子ども・若者白書」が完成しました。総ページ数280ページ。執筆者130人。「第4章・若者を支える」で漂流教室について書いた関係で、シンポジウムでも話をしてきた。
■「若者」というくくりはよくわからない。あえて共通項を取り出せば、社会に出る直前、または出て間もないころで、自分と社会の折り合いにとまどっている期間と言えるのではないか。これは自分ばかり悩んでも仕方がない。なぜなら、自分と社会の折り合いである以上、社会の姿勢も問われるからだ。そして、もし今「若者」が暮らしづらいのであれば、それは社会への参加の方法が「消費」に、正確には「消費」から派生した「就労」に限られているからではないか。
■最近、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだ。中にこういうくだりがある。
しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利きかないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。(中略)こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。
書かれたのは明治だが、今の世の中と似ているように思う。自分と社会との折り合いは、世の中がいかに広く「若者」を見ているか、そのまなざしの幅で決まる。猫のような目を持てるか。白書を開けば、多種多様なかかわりを模索する人々がいる。これが広まれば、そう悪いことにはならなそうだ。
■と、およそこんな話をした。ひきこもり王者の杉本さんがコラムを載せているのが面白い。ますます猫の目に近い。「さっぽろ子ども・若者白書」は一冊1,500円。購入を希望される方は「さっぽろ子ども・若者白書」をつくる会事務局までご連絡を。(4/19午後)