漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

こちらからの景色

■ねじれた紐にリングがかかって引っ張っても取れない。それが紐をピンと伸ばすと、リングは外れてカチャンと落ちる。そんな手品があります。なんの話かというと、「多様な教育機会確保法案」の話です。

フリースクールへの公費助成をはばむ理由のひとつが憲法89条です。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」フリースクールは「公の支配」に属していないため、公金を出せないという理屈です。かつて私立学校も同じことを言われたが、今は私学助成金が出ている。フリースクールとて同じではないか、という意見がひとつ。そしてもうひとつ、団体への助成ではない。子供の学習権を保障するために、子供個人を支援すべきではないか、という意見が生まれます。

■この理屈は、バウチャー制度を引き寄せたりもしましたが、それなりに理解を得ました。団体から個人への転換ですが、いま思えば、ここでフリースクール不登校が不可分になってしまった。それからの運動は、前進しつつ微妙にねじれていきます。

■JDECで「オルタナティブ教育法案」の草案が出たのが2009年。オルタナティブ教育をうたうものであるから、当然、さまざまな教育機関を公的に位置づけろという内容になります。ところが、それが不登校とつながってしまう。当時の日誌を読むと、そこで混乱していることがよくわかります。

■「オルタナティブ教育法」が「子どもの多様な学びの機会を保障する法律」へ名前を変えたのが2012年。日誌にはこうあります。

二日目午前中は「子どもの多様な学びの機会を保障する法律」検討の分科会に参加。「オルタナティブ教育法」から名前を変え、中身も変わった。フリースクール支援の側面が強かったのが、法案からフリースクールの文字が消えた。不登校の文字も消えた。大方、この日誌で書いていた通りになった。

いろいろ消して、代わりに「子どもの学習権」を前面に押し出した。学校以外に学ぶ機関がない。しかし学校が合わない場合もある。では、その子の学ぶ権利はどうするか。決して新しい理屈ではないが、その分根を張った強さがある。

さらに学習を「home based education」と「school based education」に分けるという新しい案が出た。school basedは法律に規定された学校。それ以外はhome basedに分類する。フリースクールシュタイナー教育もホームエデュケーションもすべてhome basedになる。そのどちらも学習権として保障しよう。確かに考え方としては分かりやすい。

しかし、捩れも感じる。学校に通うのだって結局は選択なのだ。とすれば、school basedも実はhome basedに含まれる。そして、その選択をするのは誰か。保護者だろう。この考え方は「子どもの学習権」ではなく「保護者の教育選択の自由」を基盤にしている。国際人権規約に謳われている、保護者の教育選択の自由、学校設立の自由を押し進める法案としてつくり直した方がよい。
http://d.hatena.ne.jp/hyouryu/20130219/p2

団体から個人へひねった理屈を通すためには、個人の選択に正当性を与える必要があります。それは保護者の教育選択の自由と、学校設立の自由ではないかという話です。しかし、実際は逆の方向へ進みます。超党派議員立法による「多様な教育機会確保法案」国会上程の話が出たのが今年の5月。条文に書かれていたのは、保護者の教育権ではなく就学義務履行の条件変更でした。

■就学義務は、憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」。また、教育基本法第5条第1項「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う」と規定されており、法の整合性として盛り込まねばならないのはわかります。ひっかかるのはもっとほかのところで、もともとは、教育機関では認められないから個人の学習権保障へ転換した。そうしたら今度は学習権の保障が就学義務の履行に置き換わった。一度ねじったものをもう一度ねじって、法案は二重にねじれています。

■では、ねじれをほどいたらどうなるのでしょう。現れるのは「保護者の就学義務履行をもってフリースクールなどを公的に位置づける」です。「フリースクールなどを利用することで就学義務が履行される」ではありません。それならば、フリースクールも普通教育として認められた、いわゆる「一条校」の扱いとなる。しかし、そんな話は出ていません。だから、就学義務履行を証明するための「個別学習計画」の作成、提出と教育委員会による認定が含まれているのです。

■そして、そこに「子供の学習権」はありません。ねじれがほどけたら、学習権の保障も一緒に外れてしまいました。まるで、手品のリングのように。

フリースクールへの、または子供の学習権の保障について公的支援を求めてきた者として、このアクロバティックな理屈を、バカバカしいと切って捨てることはできません。どれだけ知恵をしぼり、工夫したか。その過程には頭が下がります。また、現在の教育制度がいいとも思えません。「多様な教育機会確保法案」の理念にある「義務教育の段階に相当する普通教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が十分に確保されるようにすること」を否定する人はいないでしょう。

■では、なににひっかかっているのか。学習権の保障を求めながらフリースクールの話をする。外国人学校の例を挙げながら不登校の話をする。権利保障のはずが義務履行になっている。ねじれのままに、そのときどきで主題が変わる。議論の軸が定まっていないことが気持ち悪い。話の中心を誤魔化したままにしてるから、気づけば学習権の保障がすっぽり抜けてたりするのです。

ブラジル人学校に関わっている小貫大輔さんは「多様な教育機会確保法案」に賛成しつつ、このような懸念を示しています。

日本人のご家庭の中にも、フリースクールに通うことが「確信犯」である人がいるのではないかと思います。「確信犯」万歳! と思います。子どもが不登校になり傷つくことを体験してから初めて、「その子ども」の必要とする教育に気が付くのではなく、最初から家族で「その子ども」の必要とする教育を求め、他の親御さんたちと一緒に、先生方と一緒に学校づくりをしている方々が日本にはたくさんいることを知っています。
(〜中略〜)
では、「確信犯」は犯罪者でしょうか。「確信犯」はその「確信」によって、市民としての権利をはく奪され、卒業証書や公的助成を受け取る権利を放棄しなければいけないのでしょうか。
(〜中略〜)
これまでの日本の外国籍児童生徒への教育政策は「来るものは拒まず」の「鯨と猿の平等」だった、と申し上げました。公立学校に通うことは、外国籍の児童生徒にとっては単なる「お慈悲」だった。新しい法律が、同じことを「不登校」の子どもたちに繰り返さないことを訴えます。「確信犯支援法」としての、真に「多様な機会確保」の法律となることを願ってやみません
※全文はこちら(p.45、46)→http://freeschoolnetwork.jp/file/1020_shiryou_enlarged.pdf

ここで言われていることもやはり保護者の教育権についてです。行政を動かすということがどれだけ難しいかも、そのためにどれだけ工夫してきたかもとてもよくわかるのですが、通す筋を誤魔化したまま法律をつくっても、結局「お慈悲」にしかならないのではないかと危惧します。

■以上は、フリースクール全国ネットワークのサイトに書かれた奥地さんの法案解説を読んで思ったことです。奥地さんからはそのように見えることはわかりました。そして、こちらから見える景色はこんな感じです。