■ボランティアスタッフの坂岡です。約五年続いた訪問が次回で終わりになります。今回は、その感想などを。
■はじめは、「有意義な時間にしよう。」「仲良くなろう。」「悩みがあれば相談に乗ろう。」と思って、わりと意気込んでいました。しかし、一年間くらい訪問を続けていると、「部屋にあるもの」をあらかたやりつくしてしまい、「やること」がなくなってきました。
■「やること」がなくなったあと、彼は僕を「もてなす」手段を失ったのだと思いますし、僕もまた「訪問を有意義なものにする」すべを失ったのだと思います。どちらともなく、「もう何もすることがない……」というつぶやきが生まれ、僕たちは「ただ一緒にいるだけ」になりました。「することがない」のに、「なぜ」訪問をするのでしょう?何の「意味」があるんでしょうか?よくわからないまま、僕は淡々と訪問を続け、彼も淡々と僕を迎えつづけました。(こうして書くと、ほんとに謎というか不思議な関係だなあ。)しかし、ある意味「そこから」が関係の始まりだったような気もしています。
■「やること」、「やる意味」、「やりがい」、「なすべきこと」、「目的」。こういう事柄を求めるのはごく自然で、当たり前なことだと思います。しかし、あの空間ではなぜかそれが通用せず、無効化されたのです。「やることがない」は、そのあとも何度もあの空間に「ぽつり」とうみ落とされ、その「ぽつり」が足跡のように繰り返し落ち続けて、ふと後ろを振り返れば四年弱が経過していた。抽象的ですが、そんな印象です。
■明確な目的意識を持った専門的支援機関においては、「やる意味」・「目的」が求められます。だから、スタッフも「やりがい」を感じられます。僕はそういうところでもボランティアをしてきました。しかし、誤解を恐れずに言えば、漂流では普通の意味での「人のお役に立てるやりがい」は感じられない気がします。しかし、「やりがい」以前の、もっと根本的な何かを教えてもらったような気がしています。とりたてて親密になれなくても、盛り上がった会話や楽しみがなくても、「やること」がなくなっても、「ただ一緒にいる」ということには、何か意味があるんだと思います。その「ただ一緒にいる」ができるようになった後、その土台の上に、「気づかい」でない、素朴な笑いや自然な相談も生まれていったような気がします。
■彼が「訪問を終わりにしたい」、といった時の理由も非常にさっぱりしたもので、僕も納得しました。さて、最後はどうなるのかな?