漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ボランティアをめぐって

■お久しぶりの山田です。たまに書きたいことが出たら書くことにしました。

2020年東京オリンピックのボランティアの募集要項で交通費・宿泊費が自己負担なことや労働時間がフルタイムであることに批判の意見が上がっています。自分もボランティアスタッフに訪問や居場所にいてもらっている身として、それは問題だなと思っていたのですが、他のオリンピックの時はどうだったんだと調べてみたら、あらビックリ。オリンピックのボランティアでそれを出さないのは、伝統的にそうなっているものだったのでした。それは国際オリンピック委員会(IOC)のボランティアに対する考え方というだけでなく、国際的にボランティア活動を推進している団体であるボランティア活動推進国際競技会(IAVE)の定義でも、報酬・手当を出さないものだとなっていて、二度ビックリ。

ロンドンオリンピックのボランティアを取材したBBCネット記事では、ボランティア参加者がオリンピック後に「朝の四時半に起きて夜に帰宅する生活が無くなったのは変な感じです」と話しているのを好意的なトーンで書いています。交通費も無しの無報酬で宿泊場所もテント生活であることも書かれていて、今の日本でこんなトーンの記事を書いたら、ブラック労働推奨だやりがい搾取だと炎上必至でしょう。しかし、北京オリンピックピョンチャンオリンピックのボランティアマニュアルを見ても、フルタイムで働くことは当然のこととして書いてあります。ボランティアの内容も、通訳や医療関係など専門的な分野も入っています。

■どうも調べてみると、無償であることと自発的であることについて、ボランティアの国際的な感覚と日本国内の感覚はかなり違うようです。東京オリンピックのボランティアに対して自分でも結構ブラックな印象があったのですが、これは自分の中に「無償で働くには時間も長く内容も高度すぎる、無償ならばできる限界がある」という考えが隠れているのではないかと気づきました。国際的にも日本でもボランティアは自発的に行う無償の活動だという定義は表面的には同じなのですが、国際的には「だから、無償のままで力を発揮しよう」となるところが、日本では「だから、無償でやれる範囲でいいのです」となる。自分も後者の考え方を取っていましたが、実はこの考えは、お金が出ないのだから制限するのが当然だ、と逆にお金に縛られていると言えます。

■自発性について考えると、無償でもやってしまうことというのは考えてみるといくらでもあるわけです。小学生の頃、本を買いたくて家から街中の書店まで自転車で往復10キロ以上を楽しく走ったことを思い出します。なんだか弱虫ペダルっぽい。こんな風に自分のしたいことなら、人はどれだけ動くこともお金を使うこともいとわないわけです。ボランティアに求められるのは、多分このような自発性のはずです。自分にとってそれをすることが快であること、生きるのに必要であることくらいのレベルであることが、ボランティアに求められる自発性なのかもしれません。こう書くとかなりレベルが高そうですが、多分これは自分が思ったことを自由にする感覚に近いはずです。

■一体どうして日本のボランティアは国際的な感覚と違っているのか、それは奉仕活動を推進してきた教育が関わっているのではないか、とまず思いました。ボランティア活動も奉仕活動も無償という点では同じなので、奉仕活動をボランティアとして実施している学校や団体が多い。しかし、組織がお膳立てした活動の実行部隊となることの多い奉仕活動では、ボランティアで求められる自発性よりも組織にどれくらい献身しているかが、金銭の代わりになる意義として重要になります。自分がやりたいことをやりたいようにやってみる経験がボランティアであり、それは日常の中に芽があるはずなのに、教育現場ではそれを育てることはしていない。

■もう一つ、今回のオリンピックボランティア批判は、今の日本で皆経済的時間的余裕が無くなっていることも関係していると感じています。諸外国のようにボランティアしたいと思った人がいても、金が出せない。そんな社会に対する批判として、同調している人も多いと思います。漂流教室でも訪問の交通費は出してきました。日本ローカルのボランティアという形を作る方向性がいいのか、原理的なところから外れない方がいいのか。悩ましいところです。

■なんか他にも色々と考えたのですが、一区切りついたのでここで止めておきます。また会おう。