漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

それは秘密

■気温は高いけどようやく風は涼しくなってきた。夜はちょっと寒いくらい。お盆だものね。そう来なくちゃ。

■8月12日の北海道新聞漂流教室のボランティアスタッフのインタビューが載った。「市民の学びを広げたい」という連載記事のひとつ。webでは見られないそうなので、画像を貼っておく。

(画像クリック→オリジナルサイズを表示をクリックで拡大されます)
■全部で三名の元利用者・現ボランティアスタッフがインタビューを受けた。その場に俺もいたのだが、記者はなかなか苦労していたようだ。どうもはかばかしい答が返ってこない。「居場所を見つけて、それで学校という次の段階に進んだんですね」と訊けば、「そういう段階的なものじゃないと思うんですよね」と返事がくる。「学校もあって居場所もあって、それは別個のものでつながってないんじゃないか」とか。

■または訪問について、「家に来てなにをしてたんですか」という質問に、「いや、なんかゲームしたりとかそれだけでしたね」という返事。「それが楽しかったわけですね」「楽しかったですね。好きに遊んでたんで」「いま思うとそれがなんの役に立っていたと思いますか」「いや、役には立ってないでしょう。本当にただ遊んでいただけなんで」。

■しかし彼はその後、漂流教室のボランティアになり、訪問先でやはりただ遊んでいる。なにかを得たからこそ、それを渡そうと思ったのだろうが、言葉にしようとすると逃げていく。「ただ遊んでいた」としか言えなくて、聞く人を混乱させる。

■徹底的に無意味、無目的というのは説明しづらい。説明は目的をもってするものだから。記事にはそう書かれていたけど、インタビューではおそらく「あらたまった」「学びになった」という言葉は使ってないんじゃないかな。類することは言ったかもしれないが。ただいる、ただ遊ぶことの中で生まれるものは確かにある。でもそれは当事者にしかわからない、秘密のものなんだよね、きっと。おそらく物語にそのヒントがあると思うが、パッと名前が出てこない。児童文学を読み直さねば。

■ちなみにインタビューで俺についても語られた。

  • Aくん:朝来たら、二日酔いの大人が部屋で倒れてるんですよ。なにかと思いました
  • Bくん:初めて来たときに、こっちを見もせず、話かけもせず、ひとりカボチャを彫っている人がいた

…これはなんの役に立ってるんだろう。物語の中に見つけられるか。