漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「僕にとって嫌な人」=「卑怯な人」を「支援」すること

■ボランティアスタッフの坂岡です。涼しくなってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

■僕の最近のテーマは、「嫌な人」を「助けようと思ったらある程度助けることができてしまうし、その方がいいんだよな」と思えるポジションにいつつも、それが「ものすごく面倒くさい」という葛藤にどう向き合うかということです。

■日常生活においても、対人援助の現場においても、「支援」と呼ばれる営みは突き詰めていえば「(人間)関係の調整」ということに落ち着くんじゃないでしょうか。僕がいつのまにか「人間関係を調整するポジション」になってしまった時(日常生活、ボランティア、バイト等含め)、よく思ったのが、「面倒くさいけどやるしかない」でした。(ちなみに、漂流で「めんどくさい」ポジションになったことはありません。念のため。)その「めんどくさい」を辛うじて乗り越えさせてくれるのが、「ほっておくと自分自身がもっと面倒くさくなるから」(自分の感情)、「周りの人たちにまで迷惑がかかるから」(共同体への愛着)、「本人にかわいげがあるから」(当事者への感情)という三要素だったと思います。

■しかし、この三つ目の点、つまり問題起こした当事者に「かわいげない」し、「変化する可能性が見えない」場合、僕の「めんどくささ」は跳ね上がります。「かわいげ」というこの不思議な要素は、表面的な行動では測れません。相当乱暴な行動化を起こす場合でも、「この人のために何かしてあげたいなあ」というモチベーションが保てる場合があるからです。行動が激しい場合でも、「正直」な人がいます。「正直」という要素はデカい。モチベーションが「がくん」と下がるのは、その人の「卑怯」な側面を見てしまった場合です。「あ、こいつずるい奴だな、卑怯だな」と思った瞬間、凄まじくやる気が減退し、「もうこの人と関わりたくない」、「縁を切りたい」という衝動に襲われるのです。

■「卑怯」、ということの本質について考えてみると、これは「本来自分が担うべきパートを放棄して、人の好意を当てにしている態度」にあると思います。端的に言えば、「向き合うことから逃げている」、「甘ったれてる」態度。そして、「この部分は周りが気を使ってくれて当然だ」と、人のやさしさを当てにするが、その「当てにしている自分」にも気づかないふりをしている。相手に分不相応な負担をかけていることに気づこうと思えば気づけるはずなのに、都合の悪い刺激からは目を背け、逆に自分の甘えにとって都合のいい要素についは選択的に注目する。そして、当てにしていた好意が得られないと「すねる」。「被害者」然としている。(遠まわしに「すねる」人の場合、一層扱いがめんどくさい。)もちろん、「当てにしていい」、「甘えていい」範囲はあります。しかし注意しなければならないのは、1)その範囲が大人になるほど小さくなることと、2)状況や相手との距離感によって変わってくるものだということです。でも、「甘ったれてる」人には、その「距離感」がない。

■そういう感じの「友達?」、皆さんの周りにもいませんか? 自分がそういう「めんどくさい奴」になってることも多いかもしれませんが……。このテーマの答えはまだ見つかってません。ヒントになりそうだと今のところ思っているのは、精神分析的セラピスト祖父江典人の、次の考え。「倒錯的で破壊的な人間関係の背後に<痛み>の影、<傷つき、悲しみながらも、対象を追い求めてもがいている、健全な抑うつの影>を見ていこう」とする態度です。

■そして、フランクルの次の考え。「どんな人も、<意味への意志>を持っていて、それはゆがんだ形で現れることもある。」「どんなに積み重ねられた過去の束縛があったとしても、人間は自分が置かれている現状に対して、<一定の態度をとることのできる自由>をもつ。」そして、「人間の精神の反抗力を目覚めさせるのは、<もの>ではなく<人間>として扱ってくれる誰かとの関わりだ。」という考え方です。フランクルのいう<人間>とは、「どんな状況におかれても、それに対して一定の態度をとる自由を行使することができる存在」、「自由を行使することによって何らかの固有で、一回的で、独自な価値を実現することのできる存在」、そして、「その人にしか実現できない意味を実現する責任を負った人間」という意味です。<卑怯でめんどくさくて嫌な奴>も、実はそういう「尊厳と責任を負った人間」なのだと思ってみると、何かが変わるのかもしれない。でも、その「責任」を放棄しているように見えるから、腹も立つし「嫌な奴」と思っちゃうわけですよね。うーん。