漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「子どもに戻れた」

不登校新聞「fonte」に面白い記事が載っていました。「子どもが語る学校外の居場所」という題で、川崎にある「フリースペースえん」の利用者が文を書いています。

■面白かったのは二点。ひとつは、フリースペースの第一印象が決して良くなかったこと。実はほとんどのフリースクールで同じことが起こります。だいたいフリースクールって狭いし雑然としてるし、利用者は好き勝手に動いてるし、スタッフは怪しいし、敬遠されるのも仕方ない。でもそういうところも含めて、フリースクールは「学校とは違う原理で動いている」ということの表れなんですよね(まあ部屋はきれいにした方がいいと思うが←自戒)。フリースクールの価値とは、端的に「学校ではない」ということなんじゃないかと、今いろいろ考えているところです。

■保護者はもちろん、子供にも強く学校原理はあって(むしろ子供の方が強いかもしれない)、それと合わないものを見ると反射的に拒否してしまう。でも、次第に居心地の良さを感じるようになっていきます。これが面白かった点のふたつめ。記事ではこう表現されています。

「えん」に来て、そんな私がほぐれて、子どもに戻れたという感じがしています。もともとすごく甘えたがりの部分があったのに、誰にも甘えられなくて。でも、「えん」にいる人は、みんながそれぞれの状況にいる。構ってくれる人も、構わない人もいるし、誰がいてもいい。そうすると、自分の立ち位置を考えず、心地いいところを探すことができたんだと思います。

■これは、「ひとり」になれた、ということなんじゃないかな。「ひとり」というのは「役割がない」ということです。世の中どこへ行っても、その場にふさわしい役割を要求されます。雑然とした、てんで勝手に過ごしているフリースペースで、いったん役割から離れる。そこから改めて、自分を組み立てる。子供は役割がありません。遊びながら周りとの関係をつくり、関係をつくって自分を確かめる。25日の坂岡くんの日誌にも通ずるものがあるように思います。

■全文は以下で読めます。細かいことですが、題が「学校以外」ではなく「学校外」なところがいい。「学校以外」だと、学校かそこか、という選択になってしまう。「学校外」なら、学校にもそういう居場所はあるし、外にもある、という理屈になります。併用できる。ずいぶん前(読み返したら10年前でした。ひーっ)に「人はたくさんの所属を持ち、それぞれは切り離されている方がいい」と書きました。あっちで失敗しても、こっちには影響がない。こっちでは新人だけど、あっちではベテラン。そんな行き来の中で得られる「受け入れた/受け入れられた体験」もあるんじゃないかな。
fonte:http://www.futoko.org/news/page0216-1184.html