漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「差別的なまなざし」

中日新聞の社説が手厳しい

不登校対策法案 漂う差別的なまなざし>

不登校の子どもの学びの保障はもちろん、大切だ。では、なぜ不登校に陥るのか。学校の側に問題はないのか。根源によくよく目を凝らしたい。子どもだけの責任に帰すかのような法律では危うい。
文部科学省のまとめでは、昨年度に年間三十日以上休んだ不登校の小中学生は十二万六千人。うち七万二千人、全体の57%は九十日以上休んでいた。授業があるのは年間二百日ほどだから、事態の深刻さが分かる。
不登校の小中学生はもう二十年近く前から、年間十万人を超え続けている。子には学校に通う義務はないけれど、学ぶ権利はある。大人はそれを守らねばならない。
問題意識を共有する超党派の国会議員らは、不登校の子のための「教育機会確保法案」を国会に出している。だが、賛否が割れており、慎重な審議を望みたい。
当初目指したのは、自宅や民間のフリースクールなどでの学びも、一定の条件つきで義務教育とみなすという法案だった。公教育を担う場が多様化し、不登校現象が解消する可能性があった。
ところが、不登校が助長されるとの反対に遭い、骨抜きになった。不登校は逸脱行動であり、学校復帰という正常化に努めるべきだ。そんな旧来の発想に根差したような法案に変わってしまった。
前者では、学校一本やりの制度に風穴が開き、自尊心も取り戻せただろう。後者では、これまでと同様に病人視され、社会の偏見や差別のまなざしも消えまい。
法案によれば、文科相不登校と認めた子について、学校外の学びの重要性や休養の必要性に配慮して、心身や学びの様子をみながら親子を支援するという。
けれども、学校外の居場所や休養の機会は、不登校の子に限らず、すべての子にとって大事なはずだ。不登校か否かを問わず、悩みを抱えている親子には、等しく手を差し伸べるべきでもある。
学校に通っている子と切り離して対策を練ることに、どれほどの意味があるのか。かえって、社会の分断や亀裂に通じないか心配だ。
不登校の子を受け入れてきたフリースクールの中には、学校外の学びが公認され、公教育参入へ向けた一歩になると評価する声もある。もっとも、教育行政の単なる下請けになって、自由が失われては元も子もない。
不登校やいじめ、暴力の現状をみれば、横並び圧力や競争主義を強める学校のあり方を省みる姿勢こそが、本当は求められている。

(11/18 中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016111802000110.html

もっぱら法案の話になっているが、批判の矛先は進めてきたフリースクールへも当然向く。「漂う差別的なまなざし」を解消するため活動してきたフリースクールが、同じ言葉を投げかけられるとは予想だにしなかったろう。「多様さ」を求めていたはずが、「差別」を生むと言われる。選択が選別の理論にすり替わってしまったと、この日誌でも何度か書いた。

■理屈は思いもかけない形に変容する。もちろん、法案への反対意見だって変わる。この社説もそうだが、「学校こそまず変わるべき」「学校教育の中身を問わねばならない」という理屈は、学校中心主義と相性がいい。法案に反対しているつもりが、学校教育偏重を加速させる。一方、どんな形になっても「蟻の一穴」で成立させたい人がいて、両者の思惑は奇妙な形で統一される。進めたい人と反対したい人のコンビプレーがこの法案を後押ししている。

■「けれども、学校外の居場所や休養の機会は、不登校の子に限らず、すべての子にとって大事なはずだ」という主張は突破口になるだろうか。法案に賛成しても反対しても、もう不登校をテーマとすることから逃れられない。「居場所」、そして「休養」。特に休養の必要性を訴える方向にシフトできないか。先月の、北大でのゲスト講義でも、休息の権利に質問が集中した。電通社員の過労死も影響していただろう。「休む」ことが見直されている気配がする。

■休養が法律になじむかといえば難しい。「子どもの権利条約」では認めているのだから、あとは自治体で条例をつくるくらいだろう。むしろ、世の中の「まなざし」の変化の方が大事だ。不登校は「問題行動」ではない、という通達が文科省から出た。これにうまくひっかけて、休むことにもう少し寛容になれないか。内田良子さんの言う「年間29日までは有休」制度でもいい。「休ませろ!」というシンプルな理屈は、単純なだけに変容しづらいような気もする。